綾が浴衣に着替えて現れると沖田は酷く驚いた顔をした。屯所は無礼講ということでほとんど人がおらず、いつもの喧騒が嘘のように静まっている。沖田の反応が自分の思った通りで思わず彼女は笑みを零した。
「たまにはこういうのも良いでしょう」 「それ、どうしたの?」 「近藤先生が下さったのです。大文字焼きだからと」
障子を開け放すと夜風が舞い込んできた。縁側に腰掛けて綾は沖田を促した。沖田は珍しく調子が良いようだった。昨晩喀血して以来発作はおさまっているのだという。心なしか顔色も良いように見えて綾は胸を撫で下ろした。辛そうな彼を見ているとやはり苦しい。 沖田は緩く笑って立ち上がり、彼女の横に腰かけた。
「君がそうした可愛らしい浴衣を着るのは珍しいね」 「似合いませんか?」 「まさか。可愛いよ」
真っ直ぐに褒められて綾は赤面した。恋仲になって以来、こうして沖田が甘やかすことが多く、そのたびに彼女は戸惑った。隣同士に隙間なく座っているため距離が近い。肩と肩が触れてしまいそうだった。沖田は笑みを零して彼女に手を伸ばした。髪を掻きあげるように撫で、それから彼女の頬に添えた。
「羨ましいな」 「羨ましい…ですか?…ああ、近藤先生に浴衣をいただいたから?」 「そうだね。近藤さんは殊更君を可愛がっているから、気にかけて貰える君が羨ましいよ」 「そんな…。ただ目立つだけですよ」 「そんなことはないよ。近藤さんは一生懸命な人が好きだからね。ああ、でも、羨ましいってのはそれだけじゃないよ」
不意に沖田は顔を近づけ覗き込むように綾を見つめた。息がかかりそうなくらいの距離に、彼女は思わず目を見開く。沖田は緩く首を傾げ、それから口角を上げる。
「君をこうして美しくする近藤さんに嫉妬かな」
言葉の意味を理解すると同時に綾は驚いた。近藤のことを敬愛してやまない彼の台詞に言葉の重さを推しはかる。どれほど彼が自分を想っているのかと想像してしまう。 沖田は頭を傾けたままそっと綾に近づく。唇が唇に重なった瞬間、彼女は瞼を閉じた。触れるだけの接吻だったのに、触れたところがどうしようもなく熱を帯びているように感じる。綾はそっと手を伸ばして沖田の腕に触れた。
長い間そうしていた二人はやがて唇を離して見つめ合う。綾の漆黒の瞳は潤んでいた。
「綾」
囁くように沖田が名を呼ぶ。はい、と綾は掠れた声で返事をした。ただ名を呼ばれただけなのに、その声に慈しみと愛情が籠められていたのを彼女は思い知った。 沖田の指がそっと彼女の後れ毛を掻きあげる。翡翠色の瞳が細められ、綾だけを真っ直ぐ見つめた。
「好きだよ」
癖のある声は特徴的だけど大声でも何でもない。それなのに綾の耳はその音しか拾わなかった。薄く息を飲んだ彼女に沖田は微笑んだ。
「やっぱり僕は綾が好きだ」
私もですと綾は言いたかった。なのに言葉が出てこない。声が出せなかった。 沖田は仕方ない子だなと笑い、それからゆっくり近寄る。再び合わせた唇は熱かった。
「君はとんでもない人なのかも知れないね」 「とんでもない…ですか?」 「だって僕をこんなに魅了するのだから」
それを言うならあなたこそ。綾は心の中で呟いた。私をただの女にしてしまうあなたの方こそとんでもない。 綾は何かを言う代わりに微笑んだ。沖田が愛しくて仕方なかった。
吹き抜ける風に乗って虫の音が響く。美しい夜闇に相応しい澄んだ音色を聴きながら、綾はただ沖田の熱に浮かされていた。
続
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