昼過ぎから一層照り始めた太陽の陽ざしは綾の額に汗を浮かべるには十分だった。肩に掛けた手拭で軽く拭い、再び木桶に目を遣った。井戸から汲んだばかりの水は冷たくて気持ち良かった。丁寧に布と布を擦り合わせながら洗う。布から滲み出た血が水に浮かんでいった。 あの一件のあと、沖田は喀血後の処理を綾に委ねるようになった。床から起き上がること自体が辛くなった彼にとって、木桶や手拭を洗うのは容易なことではない。申し訳なさそうに羞恥心すら浮かべて頼んだ彼に、綾は笑って引き受けた。
濁った水を流してもう一度井戸の水を灌ぐと、今度はもう血は滲まなかった。僅かに染みになっているがほとんど色は抜けていた。灰汁を混ぜて浸み込ませながら洗濯板に擦りつけた。綾の額には玉のような汗が浮かんだ。
「精が出るな」
声を掛けられ一拍置いて振り返る。逆光ではあるが確かにそこには近藤が立っていた。綾は驚いて瞬きを繰り返し、それから慌てて立ち上がった。
「近藤先生!ご無沙汰しております」 「うむ、久方ぶりだな、雪之丞。達者だったか」 「お陰さまで。近藤先生もお元気そうで何よりです」
自然と微笑みを浮かべた彼女に近藤は力強く頷いてみせた。多忙な近藤はますます屯所にいることが少なくなっており、姿を見かけないことの方が多い。綾もまた隊務と看病で忙殺されている。幹部会等で顔を合わせたとしても話すこともなく、寂しい想いをしていた。 近藤は作業を続けるよう促し、それからのんびりと笑った。
「今日もよく晴れておるなぁ。雲ひとつない見事な快晴だ」
綾は手早く木桶の中の手拭を濯いで絞った。血の痕はほとんどなくなっている。直ぐ近くの物干し竿に干し、彼女は近藤に待たせた旨を詫びた。
「それで近藤先生、いかがなさいましたか」 「ちょっとついてきなさい」 「あ、はい」
訳も話さぬ近藤に綾は首を傾げるが、特に追及もせず背を追った。近藤は少し浮き足立っているようだ。何か驚かせようとしているのだろうかと思う。ごく偶に内緒で買ったり貰ってきたりしては、それを綾にくれる。近藤は女子ながら引けを取らぬほど働く綾を千鶴と並んで可愛がっていた。
果たして彼が向かったのは自室であった。障子を開けるとそこには既に千鶴がいた。千鶴の目の前に並べて置いてあるものに綾は息を飲んだ。
「今日は大文字焼きだろう。これを着て出かけてきなさい」
優しい声音で近藤は言った。浴衣が二着置いてあった。薄い青のものと桃色のものだった。どちらも見るからに仕立てが良い。綾は千鶴と顔を見合わせ、それから近藤を仰いだ。
「近藤先生、これ…」 「なんだ、気に入らんかね」 「いえ!とんでもないです。とても綺麗で…。でも、あの、いいのですか」 「何がだね」 「こんな素晴らしいものを…」
戸惑う娘二人を見て近藤は瞬きを繰り返し、それから思い出したように豪快に笑った。
「むしろ着て貰えぬほうが困る。せっかくの浴衣が可哀想だからな」 「近藤先生…」 「ほら、二人で話し合って好きな方を取りなさい」
近藤は再び二人を促しながら少し離れたところに座る。 改めて見るとどちらの浴衣も美しく選び難かった。綾はちらっと隣の千鶴を見遣る。千鶴は熱心に二つを見比べていた。
「千鶴」 「あ、はい」 「どちらがいいか決まった?」
尋ねれば千鶴は迷っていると答えた。綾はもう一度浴衣に視線を落とした。薄い青の方は濃い紫陽花が咲いて品がある。対して桃色の方には桜の花びらと番傘が描かれており愛らしい。
「どちらでも構わないのなら、千鶴は青の方にしてみたら?」 「…え?」 「いつも桃色の着物を着ているでしょう。偶には変えてみると面白いかもよ」
千鶴の持ち物には桃色が多い。彼女の優しい雰囲気に良く似合っている。けれど、だからこそこのような時は交換してみるのも良いかと綾は思った。綾は逆にあまり桃色の着物を着ることがないこともあってだった。 虚を突かれた顔をした千鶴だったが、綾の提案は合点がいったらしい。嬉しそうに笑って、はいと言った。
そんな娘二人を見て近藤も満足そうに微笑んだ。
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