五月雨 | ナノ








緊張した面持ちのまま綾は廊下を歩いていた。膳を抱えてた指先が強張っている。部屋の前で立ち尽くしてしまった。沖田と話し合わねばと思ったのにいざとなれば尻込みするなど情けない。確かにそう思うのに足は動かない。綾は何度も呼吸を繰り返して心を落ちつけようとした。


「綾?」


障子の向こうから癖のある声が聴こえた。綾はゆっくりと目を見開き硬直する。綾、ともう一度沖田が呼ぶ。息を決して彼女は座ると膳を脇において襖に手をかけた。


「夕餉をお持ちしました。入っても構いませんか」
「…うん、どうぞ」


沖田の声はいつもと変わらぬように聞こえ、それが却って綾を緊張させた。震える手を叱りつけてゆっくり障子を開ける。沖田は身を起こして穏やかな表情でこちらを見据えていた。翡翠色の瞳は細められている。いつもどおりの、綾が良く知った彼だった。


「ありがとう」


落とすように微笑んで沖田は綾を迎え入れた。先ほどまでの落差に彼女は心底驚いた。激怒していても仕方ないと覚悟していたというのに、沖田は驚くほどいつもどおり、恋仲になって以来の態度そのままだった。


「沖田さん」


思ったより掠れていると思った。綾は茫然とその場に立ち尽くした。どうしてよいのか解らなかった。覚悟して部屋まで来たはずだというのに、いざとなると体が動かない。情けないと彼女は思った。今の自分は見っとも無い。
沖田はそんな綾に困ったように笑いかけ、座ったらと柔らかく言った。


「気にしないようでいて、君はやっぱり気にするね。それが僕を想っているからだと知っているからこそちょっと罪悪感かな」
「沖田さん…」
「とにかく座って。落ち着いて話をしたいから、君を立たせたままでは気になって仕方ない」


自分の隣を軽く叩いて沖田は言った。綾は瞬きを繰り返し、それから頷く。彼女は酷く強張った面持ちのままおもむろに指名された場所に腰かけた。沖田からは汗と仄かに甘い匂いがした。枕元に好物の金平糖が置いてある。きっと近藤あたりが贈ったものだろうと彼女は思った。
何も言うことが出来なかった。喉の奥で声が張り付いているように、何一つ言うことが出来ないでいた。開け放した障子の向こうから淡い夏風が吹き込んで頬を撫でる。むせ返るほど暑いのに不思議と彼女の頬に汗は流れなかった。


「綾」


沖田は穏やかに微笑む。翡翠色の瞳には僅かに躊躇いを浮かべている。それでも彼は真っ直ぐ綾を見つめた。


「僕は君に嫉妬していた」
「…嫉妬?」


目を見開いた彼女に沖田は今度は自嘲の笑みを浮かべる。彼は綾の肩越しに外を見遣る。青々と生い茂った木の先に太陽が煌めいた。


「僕が床についてどれ程経ったのだろう。僕が刀を手にしなくなってどれ程なのだろう。そんなことを考えるととても不安になって、同時に君の活躍を見ていると苦しくなった。役に立っていない自分がじれったくて仕方なくて」
「そんな…」
「近藤さんのために働いている君が羨ましかった。そしてこんなに必要とされている君に僕という男はなんて相応しくないんだと思うと辛かった。その苛立ちを八つ当たりしてしまったんだよ」


ごめんねと沖田は落とすように言った。綾は目を見開き、それから力いっぱい首を左右に振った。自らのことを思い出すと顔から湯気が出るような気持ちだった。なんと配慮が足りなかったのだろうか。沖田のことを必要以上に気にしては失礼だが、今までの自分は余りにも気配りがなかったと彼女は目を伏せた。沖田が刀を握ることが出来なくて苛立っているのは知っていた。それなのに隊務のことやその他日常の出来事の一つ一つを語って聞かせていた。何気ない世間話のつもりが、どれほど彼の心に爪痕を残しただろう。嫉妬に値して当然である。きっと綾がもし沖田の立場であっても、自分の不甲斐なさに腹が立つだろう。


沖田は黙って綾を見つめていたが、不意に手を伸ばす。大きな手のひらはそのまま包み込むように彼女の頬に触れた。確かめるように指を動かして、沖田は目を細める。慈しみを孕んだ瞳が真っ直ぐ綾に向けられている。


「それともう一つ。僕はやっぱり君に失望されたくなかった」


思わず顔を上げた綾の視線を沖田は捉えた。すぐ目の前に翡翠色の美しい瞳があって、綾は息をするのを忘れてしまいそうだった。
沖田の髪に夕陽が差し込んで色素の薄い髪を煌めかせる。一本一本が浮き上がって見えて美しかった。


「喀血しているところなんて見られたくなかった。一番醜いところを君だけには見られたくなかったんだよ」
「沖田さん…」
「僕はこの期に及んで君に恰好つけたいんだ。…それが何よりみっともないね」


自嘲気味に笑った沖田はどこか儚くて、綾は無意識のうちに自分の胸元を軽く掴んだ。みっともないなんてそんなことは思わなかった。労咳と闘う彼は強くてそれだけでも尊敬に値するのに、どうして彼自身は真逆のことを思うのだろう。けれど綾は否定することも出来なかった。この考えが自分だから出来ることも解っていた。自分の立場だから言えることであって、もし仮に自分が沖田の立場だったら沖田と同じことを考えるだろう。
沖田は綾の頬を手のひらで包み込んだまま、僅かに指を動かした。まるで本当に彼女がいるかどうか確かめるようだった。綾はその痩せ細って骨が目立つ手のひらに自分の手を重ねた。沖田の手が温かかったことに安心した。


「私は少し安堵いたしました」
「安堵?」


意外なことを言われて驚く彼に、綾は真っ直ぐな眼差しを向けた。心の臓が早鐘を打ち煩いが、無理矢理無視してただ彼を見据える。


「恋仲になって労咳のことを告白してからも、あなたは私の前では変わらず優しかったから。一番苦しいところを見せずにいることが却って苦しかったのです」
「綾…」
「あなたが誰にも言わず一人で苦しんでいると思うだけでどうしようもなく悲しく、辛かった」


自分で言いながら綾は自分自身の気持ちを確かめていた。そうだ、自分は苦しかったのだと。沖田は綾にはいつも変わらぬ態度で接してくれた。彼が一度懐に入れた人間を大切にする人物とは知っていた。例えば近藤が見舞いにきて見苦しいところを見せるなど考え難い。だからこそ沖田は恋仲の綾にも同じ態度を貫いたのだろう。
だがそれが綾には苦しかった。


「お願いだから一人で苦しまないでください。私が苦しかった時に傍にいてくれたように、今度は私があなたの傍にいたい」


蝉の声が煩いのに、綾の声はよく通った。沖田は僅かに目を見開いていた。
綾は弟が死んだ後のことを思い出していた。今までで一番苦しかった頃の記憶を呼び起こすだけで苦しいけれど、それを乗り越えることが出来たのは沖田のお陰だったと彼女は思った。沖田が叱咤激励し自分を立ち直らせてくれた。もし沖田がいなければどうなっていたのか想像もしたくない。


「あなたの傍にいさせて」


淡い風が草の匂いを運んで通り過ぎる。夕陽が影を一層濃くして二人の手元に落ちていた。蝉しぐれに混じって虫の音も響き、まるで囲われているようだった。切り離した世界に二人しかいないような錯覚に陥る。煩いほどであるはずなのに、沖田との距離が近い。僅かな呼吸も聞こえてきそうなくらい研ぎ澄まされていた。


不意に沖田の手が頬から離れ、そして彼女を引き寄せた。沖田の胸に身体を預けた綾もまた、腕を回して応えた。


「ありがとう、綾」


癖のある彼の声はどこまでも優しかった。何も言わず腕に力を籠めた綾を、沖田もまた強く抱きしめた。





[] []
[栞をはさむ]


back