五月雨 | ナノ








「綾、おい、綾!どうしたんだ、気分でも悪いのか?」


繰り返し呼ばれる自分の名で、ハッと綾は顔を上げた。そろそろと顔を上げると酷く心配そうな顔をした原田がいた。
原田は先ほどから随分名を呼んでいたらしく、ようやく反応を見せた彼女に少しだけ安堵の色を浮かべる。綾はただぼんやりと彼を見つめた。


「やっと気が付いたか。おい、どうしたんだよ。立ちくらみか?腹でも痛てぇか?」
「左之、さん…」
「医務室に行くか?それとも部屋まで運んでやろうか?山崎を呼んできてもいいぜ」
「違うんです」
「違う?」
「体調が悪いのではありません」


力なく否定した綾に原田は眉を寄せた。それほどひどい顔をしているのだろうかと彼女は俯く。いや、きっと自分の想像以上だ。新選組で随一といっても過言ではないほど気の回る原田がこんな顔をして自分を見ているのだ、余程なのだろう。綾は唇を軽く噛むと目を伏せた。


「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですので」
「大丈夫な訳あるか。嘘つくな」
「体調が悪い訳ではないのですよ。もし今から巡察に出ることになったとしても、何の支障もないほどには」
「それなら余計にだ。綾、ちょっと来い」


原田は半ば強引に綾の腕を掴むとぐっと引き上げた。驚く彼女をそのまま目の前の部屋に引っ張り込む。そういえばここは原田の部屋であると、綾は今更気がついた。こんなところに座り込まれては気になって仕方ないだろうとも。


原田の部屋に入ったのは随分久しぶりだった。平助がまだ新選組にいて、そして伊東派と密接になる前はよく原田の部屋で呑んだものだが、最近では遠のいていた。幹部は多忙を極め互いに時間を合わせることが難しくなっていた。
物が少ないが殺風景には見えない不思議な部屋だと綾は思った。土方の部屋のように書物が積み重なっているわけではないし、花が生けられていたり掛け軸が飾られているわけでもない。それなのに沖田の部屋のように物が何もないという印象を持たせない不思議な部屋だった。しかしそれが何とも原田らしい人の温度を感じさせる部屋だ。


「総司か」


開口一番、原田が図星を言った。驚く綾に彼は苦笑し、それしかねぇだろと言葉を連ねる。いつから解りやすい人間になってしまったのだろうか。綾は目を伏せて、それから薄く笑った。


「左之さんは鋭いですね。相変わらず鋭くて、…怖いほどですね」
「お前が悩むも悲しむも総司のことだからな」
「それだけではないと思いますが…」
「その確率が高いってことだよ。特に今はその、平助も斎藤もいねぇしな」


開け放した窓から吹き込む風に綾は目を細めた。高い日差しも目が覚めるほどの青い空も、とても美しいと思った。そしてそのどれも沖田は感じ入ることが出来ないのだということも。


「綾」


とても柔らかい声音で原田が呼びかける。胸を締め付けるような、それでいてすべてを包み込むようなそんな声音だった。
綾ははいと返事をした。その声が少し掠れていた。


「総司に何か言われたのか」


ゆっくりと振り返った綾と原田の目が合う。彼は僅かな戸惑いと気遣いを滲ませて彼女を見つめていた。
風が吹いて二人の髪を揺らした。綾の一纏めにした髪は随分伸びていた。
先に目を逸らしたのは綾だった。彼女はそっと庭の先を見据えた。大きな瞳に何を映しているのか。隣にいる原田は無論、彼女自身にも本当は解っていないようだった。


「私は、沖田さんの傍にいても良いのでしょうか」


綾の声ははっきりした輪郭を伴っているのにどこか弱々しかった。原田は言葉の意味を理解出来ていないようだった。飲み込むのに時間がかかり、そして意味が解ると同時に目を見開いていく。どういうことだと尋ねた彼の声が強張っていた。


「傍にいるなとでも言われたのか」
「いいえ。でも私は…沖田さんを傷つけてしまいました」
「傷つけた?」


はいと言ったあと、綾は迷うように視線を彷徨わせ、それから意を決して事の経緯を話した。改めて言葉にしていくと自分がとても酷いことをしたように思えて彼女の胸を締め付けた。沖田の言葉を無視してしまった。沖田の意思を無視して勝手に襖を開けた。綾は沖田が喀血しているところを誰にも見せたがらないのをよく知っていた。それでなお踏み込んでしまったのだ。沖田なら許してくれると心のどこかで思っていた。他の人を許さずとも綾を許してくれるだろう。最後は笑って仕方ないなと言ってくれると甘えていたのだ。そんな自分が恥ずかしいと綾は吐露した。想いが通じ合って心を許してもらって思い上がっていたのだと、彼女は思った。


「私は結局、酷い思い上がりだったのです」
「綾」


思いつめた表情を見せる彼女に原田が呼びかける。彼はあからさまに顔を顰めていた。


「お前の推理は正解だが間違っている」
「…どういう意味ですか」


今度は綾の方が眉を寄せた。そんな彼女を見遣り、そして原田は遠くを見るように目を細めた。


「男っていうのは本当に単純で馬鹿な生き物なんだ。女の前では等しく恰好つけてぇ。誰に限らず一緒だ」
「誰に限らず…」
「総司も一緒ってことだ。お前のことが大切だからこそ恰好悪いところを見せたくないんだろう。あいつはお前のこと思い上がりだなんて思ってねぇ。嫌われたくないだけだ」
「嫌うだなんて、そんなことあるわけ…」
「お前の意思はそうだろうが、総司は自信がねぇんじゃねぇか。今の自分には何もないと、戦えねぇ己は価値がないと」


大きな音を立てて綾は立ち上がった。目を大きく見開いて原田を見据えている。その瞳には憤怒と戸惑いが浮かんでいた。あまり表情を大きく変えぬ娘であるはずの彼女が隠すことなく怒りを全面に出している。握りしめた拳を震わせて指先は力を入れ過ぎ白く変色していた。
原田は彼女の変貌に驚くが、すぐに冷静になれと言う。


「あくまであいつがそう思っているんだろうってこった。俺が総司のことを価値がないと思うわけがねぇだろうが。落ち着け」


いつからの付き合いだと思ってるんだ。言い放った彼の横顔を見て、ハッと綾は我に返った。己を恥じながら早口で謝罪した彼女に柔らかく笑うと、原田は手を伸ばして彼女の頭に載せた。


「男ならそう思うだろう。総司はお前に嫌われねぇよう必死なんだ。解ってやってくれ」
「…左之さん」
「ん?」
「それでも弱いところも何もかも見せて欲しいと思う私は、やはり思い上がっているのでしょうか」


自信を失くして俯いた綾を静かに原田は見遣った。そして彼は笑む。目を細め優しく彼女の頭を撫でた。


「思い上がりなんかじゃなく、総司は果報者ってだけだ」


例えお世辞や優しさだったとしてもその言葉が嬉しいと綾は思った。もう一度沖田と話したいと、そう思った。





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