五月雨 | ナノ










開けっ放しの障子戸を眺めながら沖田はぼんやりと、やってしまったと思った。彼女だけには当たらないように、どんなに苛立っている時ですら抑え込んでいた。彼女を傷つけることがこの世で一番恐ろしかったはずなのに、今まさにやってしまったのだと沖田は息を吐いた。発作は既におさまっていた。両手は真っ赤に染まっているが既に血が乾き固まり始めている。直に色が変わって茶色になるのだろうと彼は他人事のように思った。
人を斬った時に噴き出すものとは違い、沖田が喀血する時の血は赤黒い。鮮血とは程遠く病に蝕まれているせいだと彼は考えていた。


枕元に置いてあった木桶の水で手を洗い、中にあった手拭いで口元を拭った。布団の汚れはすぐにでも洗わなければ落ちないだろうと思う一方、自分では洗うことは出来ないのだと自嘲した。洗濯ひとつにしても誰かの手を借りねばならない。歩くのすらままならなくなった身体では何一つも。
布団の横に備えた刀をもうどれくらい抜いていないのだろうか。沖田はそっと手を伸ばす。刀を持ち上げただけで手が震える。少し前までこれを軽々と振り回していたのは、本当だったのだろうか。刀とはこれほどまでに重いものだったか。もっと、気軽に身に着けられるものではなかったか。


幼少の頃から剣の道に進みそれだけを信じてきた彼にとって、刀とは何よりも身近なものだった。自分の半身と変わりなかった。自分の一部なのだからあるのが当然だった。空気のような存在だった。腕や手のひらの延長のように刀というものがあった。
沖田にとって刀とは自分自身だった。


それが今ではどうだと彼は自嘲した。布団の真横に置いていても、持ち上げることすら億劫だ。一呼吸ついて沖田は立ち上がった。それだけで足が震える。数日ほど特に体調が優れず床についていたせいで余計に辛い。刀を半ば杖のようにしてようやく直立した。そろそろと鈍い動きで鞘の先端を畳から離すと昔のように抜刀の構えをとる。額からは汗が噴き出す。昔は造作もないことだったはすなのに。
柄を掴んでするりと刀身を抜いていく。右手だけで抜くのがこんなに辛いとは。沖田は歯を食いしばった。かたかたと鞘と刀身が細かくぶつかる音がした。途端、半分ほどまで抜いた状態で彼は刀を取り落とした。幸い布団の上でさほど大きな音もしなかった。


沖田の唇から渇いた笑いが零れた。力なく笑いながら彼は膝をついた。刀すら抜けない。抜くことすら出来ないとは。情けなくて泣くことすら出来ないと彼は自嘲した。笑うしかなかった。
自分から刀を取ったら一体何が残るというのだろう。死ぬこと自体は怖くない。ただ、こうして刀を抜くことすら出来なくなって朽ち果てていくのが惜しい。死んでも死にきれないと沖田は思った。たくさんの敵を斬って近藤の志を切り開いて刀の前に倒れるのと、ひっそりと床で徐々に弱って死ぬのでは雲泥の差だ。こうまでして生きている価値があるのかとさえ思われてならない。


沖田は解っていた。本当は、綾のことを妬ましく思っていたのだ。みっともないし情けないから口にするどころか考えることすら蓋をしていたけれど、どこかで嫉妬していたのだ。刀を取って駆け回って近藤の役に立っている恋人のことを、酷く羨ましく思っていた。


「本当に情けないな…」


拳を強く握りしめ、沖田は唇を噛んだ。どうしようもないほどの怒りが胸を支配していた。近藤と並ぶほど大事にしているはずの彼女に八つ当たりするなど、あってはならないことだった。
喀血するところを今まで頑なに見せなかったのはみっともないところを見せたくないというのもあるが、それ以上に彼女に労咳を移したくなかったからだった。綾には自分のような思いをしてほしくなかった。健康そのもので明るく信念を持った彼女を大切にしたかった。ただでさえ綾は沖田に近づきすぎている。沖田の看病をするうちに彼女にも移ってしまったら。労咳は恐ろしい伝染病だ。だからこそ愛する人に患って欲しくないのだ。自分のように虚無な気持ちになってほしくないのだ。


どうかしていた。沖田は先ほどの言動を後悔していた。狼狽してひどい言葉を投げつけた。あの時の綾の驚き傷ついた表情が忘れられない。目の裏に張り付いて消えてくれない。彼女は自分を案じてくれただけだというのに。病は性格すら蝕んでしまうのだろうか。愛する人に酷い言葉を投げつけるような、八つ当たりをしてしまうような、嫉妬してしまうような、そんなみっともない男に仕上げてしまうのだろうか。


もう一度沖田は刀を見遣った。これ以上みっともなくなる前に腹を掻っ捌いて死んでしまおうかと何度も思った。けれどそれが出来ないのは、いつも綾を思い出すからだ。自分を案じて忙しい合間を縫い献身的に看病する彼女を、裏切るような真似は出来なかった。
自分の為に身分を捨て、自分の為に時間を割いている彼女を思い出す。肉親に恵まれず唯一の弟を亡くし、それでもなお前を向く彼女はどれほど強い人だろう。傍にいて驚くことも多い。意志が強く志高く、それでいて慈愛に満ちた瞳はどれほど魅力的だろう。高貴さは恐らく生まれだけの為ではない。


「あの子に、悪いことしちゃったな」


静かに笑って沖田は手のひらを眺めた。先ほど洗ったお陰で血は残っていないはずなのに、何故か血まみれな気がした。今まで幾人を斬っただろう。この手で幾人の命を奪ったのだろう。血に濡れた手のひらで近藤の道を作った。先陣を切って多くの浪士を殺め、振り返ることなく突き進んできた。死ぬまでそうなのだと疑うことなく信じていた。
自分はこの先、幾人を斬るのだろう。果たして一人でも殺めることは出来るのだろうか。絶望的な気がしてならなかった。きっと戦場に赴くことすら出来やしない。走ることが出来ない、刀を取ることも抜くことも、振り回すことなどなおのこと。


何の役にも立たぬ身のくせに八つ当たりなどして情けないにも程がある。あまり自分を武士だと意識することはないけれど、近藤の目指す武士像と大よそかけ離れた行為なのはよく解る。そしてそれを意識すると余計悔しく思われてならない。


「あの子は僕を慕って、僕を心底案じてくれているだけなのにね」


解っているのだと沖田は思う。解っている。彼女の気持ちはよく解っている。何の他意もなく真っ新な愛情を注いでくれていることを。そして沖田が弱り死んでいくことに誰よりも恐怖を感じていることを。知っているのに当たってしまった。悲しませ苦しませてしまった。


もし次来てくれたのなら謝ろう。いつも傍にいてくれることに感謝しよう。素直な気持ちを伝えよう。そう思いながら沖田は庭を見遣った。
青々と茂った樹木の葉が夏風に揺れてさわさわと音を立てた。





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