五月雨 | ナノ









桶に汲んだばかりの冷たい水を張って、それから手拭を数枚中に入れて綾は廊下に出た。部屋に近づくにつれて隊士たちの威勢の良い声だとか、表を走る子どもの笑い声だとかそういう日常の喧騒が遠ざかっている。静けさの中に唯一残ったのは蝉の声だけだった。それも心なしか小さく聴こえている。


幹部の部屋がずらりと並んだ棟の更に奥の突き当り、半ば隔離されたような場所に沖田の自室があった。新しい屯所を造る際、近藤と土方は沖田のためにこの部屋を用意させた。幹部棟から渡り廊下を隔てた離れには沖田の部屋の他にはあと一室空室があって、その先さらに廊下を進むと羅刹ばかりが住まう棟に続く。
綾の自室は幹部棟の一角にあったが、ほとんど仕事部屋と化していた。空き時間や寝食の時などは沖田の部屋の隣にいた。彼女は沖田の容体を案じていた。沖田が労咳に侵され随分経った。もう昔の、池田屋事件の頃のように彼は動くことが出来なくなった。身を起こして厠までのわずかな道のりを歩くことすら辛い時もある。他人に弱いところを見せるのが嫌いな沖田は例え恋仲の綾の前であっても辛そうな素振りを見せることはない。しかしそれが綾にとって余計に怖かった。心のうちに不安をため込んだ末にどうなってしまうのだろうか。そのため込んだものが沖田を押しつぶすのではないだろうか。そんなことばかりを考えていた。


渡り廊下を歩いて沖田の自室の前で綾は座った。縁側から見える庭先には青々とした樹木が並び、爽やかな緑の匂いを漂わせている。
障子の向こうからはくぐもった重い咳が聴こえる。その苦しげな声に綾は表情を曇らせた。


「沖田さん、失礼いたします」


声をかけて指を障子にかけようとした綾だったが、すぐにその手をこわばらせた。沖田は酷く鋭い声音で駄目だ、と言ったのだ。


「綾、悪いけど帰ってくれないかな」
「でも!」
「今は開けない、で」


言葉に被せるように重い咳が響く。喉を摺り切り身体を削るような咳で、綾は目を見開くと思わず戸を引いた。薄暗い部屋に日光が注ぐ。沖田は半身を起して腹を抱えるように蹲って咳をしていた。彼は綾が忠告も言わず入ってきたことに驚いたようで、反射的に顔をあげた。口を両手で覆っていたが、その手のひらの隙間から血が溢れ流れ落ち布団に真っ赤な痕が残っている。
沖田は顔を顰め鋭い目つきで抗議をしようとした。だが咳が止まらずそれどころではないようだった。
労咳の真実を告げた後でも沖田は喀血している姿を決して綾に見せないようにしていた。


「沖田さん!」


初めて目の当たりにした沖田の様子に呆然と立ち尽くしていた綾は、ハッと我に返って沖田の傍に寄った。その背を摩ろうとして伸ばした手は、しかし振り払われた。病人とは思えぬほど強い力だった。


「触らないで」


翡翠色の瞳に強い怒りを宿し、沖田は綾を睨むように見据えた。手のひらは余すところなく赤く染まり、布団にも痕が落ちている。驚いて声が出ない綾に沖田は言葉を連ねた。


「入らないでって言ったよね。どうして入ってきたの」
「でも…」
「いくら恋仲でも嫌だって言っている時に踏み込んで来られると不快なんだけど。君、図々しいとは思わないの」


息を飲んだ綾から沖田は目を逸らさなかった。そして綾も彼から目を逸らすことは出来なかった。ここまで激しく怒る沖田を長らく見ていなかった。そもそも沖田は以前から嫌味を言うことはあっても、声を荒げることなどなかった。いつでも人を食ったような余裕な態度を取る男だった。
あまりのことに謝罪の言葉すら出なかった。ただ呆然と、まるで幽霊でも見たような顔をして綾は彼を眺めていた。


「出ていってくれるかな」


静かな部屋に沖田の怒りを滲ませた声だけが響く。強く身を震わすような口調で彼は言う。


「聞こえないの?出ていって。早く出ていけ」
「おきた、さん」
「出ていけよ!」


沖田の口元は真っ赤に汚れていた。拳を強く畳に叩きつけたその音に押され、綾は反射的に立ち上がる。


「出ていけ!」


苛立ちを隠すことすらしない声に何も言えず、綾は逃げるように廊下に飛び出した。沖田が自分に殺意すら滲ませたような声を出すなど想像もしていなかった。
夢中で廊下を駆けた。渡り廊下を過ぎて幹部棟の半ばまで走ったところで、彼女はようやく立ち止まった。


沖田に辛い思いをさせている。そう考えると胸が張り裂けそうな気持ちになった。そして彼は一人で闘っているのだ。労咳と、恐怖と、たった一人で。恋仲であっても踏み込ませまいと、一人で。
綾は思わず座り込んだ。手足の震えが止まらない。自分が情けなくて堪らない。何も出来ないのだ。そう、何も。彼の支えになるだなんて烏滸がましい。現に苦しめているだけなのだから。
拳を廊下に叩きつけた。その痛みが床にぶつけた痛みなのか、それとも心の痛みなのか、綾は解らなかった。





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