五月雨 | ナノ









箒を手に庭へと移る傍らで綾は顔を顰めた。内庭へと続く石段に人影を見つけた。桃色の着物を着た小柄な小姓はまさしく千鶴であった。千鶴は綾に気付く様子もない。虚空を見て大きなため息をついている。


入隊以来の環境のせいかそれとも元来の性格なのか、千鶴はあまり他人を頼るところがないと綾は思っていた。彼女自身は千鶴と幹部の中でも特に親しいと自負している。決して自惚れではないだろう。平助がいない今、同性でもある綾が千鶴に一番近い。入隊当初から千鶴に対しての態度が柔和であり、身分を明かした後は更に親しくなった。
しかしそれでも千鶴はあまり綾に悩みを打ち明けることはなかった。気を許されていないのだろうかと一瞬考えるが、それよりも千鶴自身の性格だろうと前向きに考える。さすれば内に抱えているのは苦しいだろう。本当は誰でも悩みを打ち明けたいものだ。


「千鶴」


驚かせないようにと気遣いながら近寄ったが、千鶴は一瞬肩を飛び上がらせた。驚かせてごめんと綾が謝ると、彼女はみるみる申し訳なさそうな顔になる。


「こちらこそすみません、綾さん。ちょっとボーっとしていて」
「そうみたいだね。ねぇ、千鶴。どうしたの?」
「え?」
「悩み、かな?」


綾が控えめに尋ねると千鶴は俯いた。嘘をつくことが出来ない娘だ。その素直さに僅かに表情を崩しつつ綾はおもむろに彼女の隣に腰かけた。
梅雨の合間の晴れの日で珍しく青空が広がっている。長い雨が明けたら本格的に夏だろう。肌を焼く強い日差しに目を細める。綾は、本日は南紀重国でよさそうだとぼんやり思った。


「綾さん」


ようやく口を開いた千鶴の声音はいつになく強張っていた。綾はなるべく深刻にならないようにと、うんと軽く返事をした。千鶴の緊張感が辺りを震わせるようだった。視線を落とせば固く握った彼女の手のひらが目に入ってきた。


「私、ここにいていいんでしょうか」


遠くで獅子脅しの音がした。綾は思わず目を見開いて振り返る。千鶴は目を伏せて手を強く組んでいる。あまりに力を入れているのか指先が白く変色していた。


「私がいると迷惑になる。何も出来ない癖にただ居座って、守ってもらって…。それってただの我儘なんじゃないですか」
「千鶴…」
「あの風間さんだって私がいなければやってこなかった。羅刹隊にも新選組自身にも何も被害はなかったはずなんです。私がここにいるのは、新選組にとって利益にならないどころじゃない」


どれほど思い悩んだのだろうか。堰を切って話す千鶴を綾は黙って見つめた。肩を震わせた彼女はいつもよりも小さく見えた。この恐怖を誰にも話さずに抱え込んでいたのだろう。ずっと悩んでいたのだろうと、そして先日の風間の襲撃でより強く考えるようになったのだろうと綾は眉を寄せた。


空を仰ぎながら綾は思案した。千鶴のことを迷惑だなんて思ったことはなかった。殺伐とした新選組にとって千鶴の存在はどれほど救いになっているだろう。戦場に出ることが出来ないのは確かに良くないことだ。けれどそれ以上のことをしていると綾は思っていた。そして綾の考えは他の幹部も共通だろうと確信していた。


「昔も同じようなことを言ったけれど、新選組に必要なのは戦う人だけではないよ。治療する人も食事を作る人も雑務をこなす人も、全部必要な人だ」
「けれど!」
「確かに千鶴がいることで風間が襲ってくるのかもしれないね」


ゆっくりと綾は千鶴を見つめる。千鶴は大きな瞳を見開いていた。その瞳には薄い膜が張られて光っている。


「やっぱり、私…」
「でもあの風間千景って男は薩摩に属する鬼ということで間違いない。となれば千鶴がいなくてもいずれ相対することになっただろうね。なまじ池田屋の時なんて千鶴のこと関係なしに剣を向けたのだから」
「それでも…」
「遅かれ早かれ鬼たちと新選組は戦うことになったよ。そこに千鶴がいるかどうかなんて関係ない。だから千鶴は胸を張ってここにいていいんだよ」


風が吹いて二人の頬を撫でていく。湿気を含んだ雨の匂いを孕んだ風だった。また夜にでも一雨くるのだろうか。綾は深く息を吐いた。肺に新しい空気が流れ込むようだった。


「千鶴がいると嬉しい」
「綾、さん…」
「理由なんて一言で言えないよ。曖昧だし。けれどこれだけははっきり言える。千鶴がいると嬉しいんだよ」


綾は柔らかく微笑んだ。千鶴がいて欲しいと、いてくれて嬉しいと眼差しで語る。迷惑どころか綾は千鶴が大好きだった。


「四年近くも新選組にいてまだそんなことで悩んでいたの?ずっと一緒に暮らしてきたのに、そんなこと考えたの?」
「それは…」
「私は千鶴のことを仲間だと思ってるよ。確かに始まりこそ良くなかったけれど、でも、千鶴は仲間だよ。大事な新選組の一員だよ」


意志を籠めた言葉に千鶴は何度も頷いた。ありがとうを繰り返す彼女の頭を綾は優しく撫でた。
次こそはこの大事な親友を守れるようにと胸に誓いを立てる。


陽が傾くまで二人は石段に腰かけて一緒に空を見ていた。凪いだ海のような穏やかな空だった。







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