五月雨 | ナノ









不動堂村屯所は新選組の歴史において最大級の広さを誇った屯所である。大名屋敷にも劣らぬ広さを誇り、何よりそれまで八木邸にしろ西本願寺にしろ他人の住居に“居候”状態だった新選組にとって、初めての自分たちの屋敷であった。隊士たちには十分な部屋が与えられ大風呂は三十人が入れるほど広かったという。待遇の変化に皆仰天し、歓喜した。しかも引っ越しの費用すら西本願寺側の負担だったので、新選組にとってはまさに棚から牡丹餅であった。


朝稽古を終えて綾が掃除でもしようと箒を片手に門まで出ると、そこに人影を見つけた。誇らしげに表札を眺めているその人は近藤だった。近藤はあまりに夢中になっているらしく綾が近づいてきていることに気付かない。その子供のような輝く眼差しに苦笑しながら綾は隣に並んだ。


「嬉しそうですね、近藤先生」
「おお!…雪之丞か」
「はい」


予想通り近藤は驚愕したが、すぐに相好を崩した。看板を見上げるその瞳には真っ直ぐな輝きがともっていた。


「見てみろ、雪之丞。ここが新選組の屋敷だ」
「立派な屋敷ですよね」
「そうだろう、そうだろう。我らの城なのだな」


感慨深く呟いた近藤は誇らしげな顔をしている。綾は目を細めると同じように看板を見上げた。立派な字で太く書かれた表記に彼女もまた想いが募った。ここまでくるのには随分苦労した。八木邸で居候していた頃に比べると格段の変化である。


「近藤先生、本当に良かったですね」
「ああ、そうだな」


穏やかに目配せして微笑み、二人はまた真新しい城を見渡した。
容保に啖呵を切って会津藩を飛び出したことも、初めの頃皆に敬遠されて八木邸から出してもらえなかったことも、池田屋で戦ったことも、ようやく皆に認められたことも笑いあったことも、すべてが礎だった。綾は屯所を眺めながら思いを馳せた。そのすべてがこの屋敷に繋がるのだと思った。


ふと視線を感じて綾は首を動かす。いつの間にか近藤が彼女を見つめていた。歳離れた妹か、もしくは娘を見るような慈しみを籠めた眼差しだった。


「よくぞここまでついてきてくれたな」
「え?」


瞬きを繰り返す綾の頭に大きな手が被さった。近藤は柔らかな笑みを落としながら彼女の頭を少し乱暴に撫でた。


「お前は新選組の誰よりも元の身分が高い。望めばもっと贅沢な暮らし、楽な生き方が出来たであろうに、ここが不安定だったころから全てを顧みずにこの隊にきてくれた。感謝している」
「そんな…。そんなこと言って貰えるほどではありません」
「何度もお礼を言いたくなるほどのことだ。…ありがとう、雪之丞」


お礼を言うなら自分の方だと彼女は思った。流されるだけの生き方しか知らず、己の存在を疎ましく思いながら生きていたあの頃。そこから救い出してくれた恩人を綾は真っ直ぐ見上げた。新選組に入隊して以来何度も何度も考えた。近藤に出会っていなければどうなっていたのだろう。未だに己は彷徨っていたのだろうか。尊敬と感謝を籠めた眼差しを彼に向けた。


「新選組に入れて下さってありがとうございました。私の全ては、新選組です」
「…そう言ってくれるか」
「何度でも」
「そうか。…本当にありがとう」


綾の頭を撫でながら近藤は再び看板を見上げる。このような立派な表札を掲げるまでにどれほどの苦労があっただろう。多くの犠牲があった。屈辱や無念さも感じてきた。楽な道でも平坦な道でもなかった。血塗られた、されど誇りに則った道、それが彼らの道だった。


「雪之丞」
「はい」
「まだ俺はやる。もっともっと新選組を大きくして志を遂げていく。もっと走っていく」
「はい」
「だからもう少しついてきてくれるか」


しっかりと芯の通った声音だった。綾も看板を眺めながらゆっくりと頷いた。力強く意志の灯った瞳はどこまでも真っ直ぐだった。


「勿論です。私はずっと近藤先生に、新選組についていく所存です」


大名家の姫であることより、名家の奥方になることより、何よりも魅力的だと感じた道だった。新選組に入隊して既に四年。決意は変わるどころか年々強固になっている。この人のために働きたいと願った自分の目に狂いはなかったと、綾は胸を張って言えた。温かくて優しくお人よしで騙されやすい、されど曲がったところのない真っ直ぐな男に惹かれた。彼の元で働きたいと一心に願った。


揺らぎ知らずのその言葉に近藤は目を細めると、もう一度ありがとうと呟いた。夏の淡い風が二人の頬を撫でて静かに通り過ぎていく。遠くからは野菜売りの威勢の良い声が聴こえてきた。


「もう一つ、俺はお前に礼を言いたい」


これは私的なものだが、と近藤は前置きをする。僅かに顔を顰めた彼女に近藤は笑みを浮かべた。先ほどよりもっと愛情の籠った柔らかな笑顔だった。


「総司を好きになってくれてありがとう」
「近藤、先生…」
「お前はそれこそどんな相手でも選ぶことの出来る立場だったというのに。この沢山いる男たちの中から総司を選んでくれてありがとう」
「そんな!それこそ、私、」
「総司は昔から何も欲しがらない子どもでなぁ。そんなあいつが熱烈に望んだ人がお前なんだ。本当に感謝している」


ありがとうと何度も近藤は繰り返した。綾が止める間もなかった。驚いた彼女の頭を優しく叩いて、近藤はいつもより格段柔らかい声音で言う。


「ちっと捻くれているし剣だけに生きてきたから粗忽なところがあるが、あれでも俺にとっては大事な弟分だ。厄介な病を患っていることも知っている。お前はこれから苦労するだろう。あいつのせいで身分まで失ってしまったのだから。それでも…」
「近藤先生」


言葉を遮って綾は近藤を見据える。大きく意志の灯った、けれど温かな瞳には慈しみが籠められていた。


「私は本当に果報者です。あのような素晴らしいお方の想いの人になれて、これ以上ないほど幸せなことだと心から思っております」


嘘偽りのない真実の言葉に、近藤は声を失った。しかしやがて彼はまた柔らかく笑んだ。温かい陽だまりのような笑顔で目の端に薄ら光るものを浮かべながら、何度も何度も頷いた。


「総司を頼む」


綾は口元を緩ませて静かに息を吐く。互いに沖田を気遣いながらその思いを確認した。
どんなことがあってもきっと自分は沖田のことが好きなのだろう。綾はそんなことを考えながらもう一度看板を見上げた。胸には誇らしい気持ちと温かな想いが募っていた。






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