五月雨 | ナノ










千鶴を守り切ったものの寺に甚大な損傷を与えた新選組は、とうとう痺れを切らした西本願寺側に即急に出て行ってくれるよう通告される。
水面下で元々そういう話は進んでおり西本願寺の出資によって屯所が建設されていたのだが、時期を早めて一刻も早く出て行って欲しいとのことだった。
これには近藤、土方の両名反対しなかった。元より新選組だけの屯所というのは彼らの夢であった。


綾は沖田の荷を纏めるために部屋に訪れた。沖田は起きて縁側近くに座っている。その肩にそっと羽織を被せて綾は問いかける。寒くはないですか。沖田は緩やかに首を振り、むしろ暑いくらいだと笑った。


朝から細やかな霧雨が降り注いでいた。庭に植えられた松の葉の上に滴が伝っては落ちてゆく。瓶の中に雨が入って波紋を広げた。
沖田の荷は少なかった。物に執着のない彼らしく衣服すら多くはない。だからといってその一つ一つを大切に扱っているわけでもないらしかった。着物に破れを見つけ綾は脇に置く。後で縫おうと思っていた。
本当に何もいらない人なのだ。綾は手を休めて隣を見上げた。空を仰ぐその横顔はどこか儚い。物欲がないで済まされる程度ではなかった。何も必要のない人だ。


綾は沖田の背に身を預ける。着物越しに沖田の体温を感じて不意に泣きたくなった。


「綾?」
「沖田さん…」


少し驚いた彼の声が耳に馴染む。綾は遠慮がちに彼の着物の裾を掴んだ。いつかは自分も必要のないものとして捨てられてしまうのだろうか。そんな不安が唐突に沸いて彼女を支配した。


沖田は目を細めるとゆっくり彼女の腕を捕える。目を見開いたかんばせに緩い笑みを落とし、それか自分の方へ引き寄せた。


「なんて顔をしているのかな」


抱きしめられたまま綾は瞬きを繰り返す。沖田の腕は優しく、しかししっかりと彼女を抱きしめていた。壊れ物を扱うような丁寧な抱擁だった。


「なんでそんなに不安そうなの、綾」
「不安だなんて、そんな…」
「この間のことかな?」


沖田の指先が綾の髪を梳くように触れていく。この間のこと、と綾は考えてようやく合点がいった。鬼の屯所襲撃を言ってるのだろう。
それではありませんと答えようとしたけれど、何故か雰囲気に気圧されて綾は言えなかった。


「何をそんなに気に病んでいたの。千鶴ちゃんを守れなかったこと?風間に勝てなかったこと?」
「…それはそうですけど、でも自分の未熟さに一番あきれ果てました」
「君の未熟さ?」
「自分よりも強敵に当たった時の自分です。恐れて気圧されてしまった。真実を受け入れることも出来ず動揺した。そうした態度に絶望したのです」


沖田の胸に頬を寄せると心臓の音がした。鼓動は沖田が確かに生きている証だと綾は少し安堵した。恐る恐る沖田の背に腕を回す。すると沖田は一層彼女を強く引き寄せた。


「私はきっと自分を過大評価していたのでしょう。本当の自分との解離に落胆したのかもしれません。それでいっそう落ち込んだのでしょう」
「過去形だね。少し客観的に見ている?」
「土方さんに言われました。それでどうするのかと。そのままでいるのかと問われ、これからを思案しました。私はこのままではいられません。私自身のためにも、私に期待を寄せてくれる人のためにも」


沖田の手が綾の髪留めに触れる。髪に絡まらないよう外すと、男のように結い上げた髪がはらはらと落ちて肩に流れる。その長い髪を撫でながら沖田は落とすように微笑んだ。漆黒の髪は絹のように細くて艶のある美しい髪だ。


「本当に君は強いね」
「沖田、さん?」
「君は強い子だよ」


腕の中で身じろぎをして綾は顔を上げた。下から見上げた沖田の表情は柔らかかった。困ったように微笑むと、沖田は視線を彼女に落とした。


「弱さを受け入れて乗り越えるのは難しいことだよ。君はそれを呆気なくやってのける。凄いことだ」
「…私、そんな立派な人間じゃありません」
「過小評価しすぎ。僕は君のそういうところに惹かれたのかな」


綾の顔にかかった髪を掻き分けて、彼女の耳にかけた。その手をそのまま頬に滑らせて沖田は真っ直ぐ見つめた。その翡翠色の瞳に憂いが浮かんでいることに綾は気づいた。薄ら浮かんだ暗がりから目を離せない。


「土方さんに諭された、か。少し妬けるね」


冗談めかして言われた言葉には悲しみが籠っていた。少なくとも綾にはそうとしか思えなくて、思わず目を見開いた。嫉妬しているというよりやるせないのだという気持ちの方が強いのだろう。その証拠に沖田は悲しそうな顔をして笑っていた。


「本当ならば僕が君を励ましてあげたかったんだけど…。そうはいかないものだね」
「そんなことは、」
「あの夜、僕は相変わらず寝ていただけだよ。障子だけは開けたものの、何の役にも立たなかった。剣戟の音は聞こえたけれど何も。そうだな、刀の柄だけ掴んでそれ以上何も出来なかったよ。きっと君が指示したように千鶴ちゃんが逃げ込んできても盾にすらならなかった」


どこまでも静かな、淡々とした声音だった。言葉を失った綾の頬を沖田の指先が滑った。昔より遥かに肉付きを失った指は、それでも彼女を労わるように優しい力を籠めている。


「今の僕が君に言ってあげられることは何もないのかもしれないね」
「沖田さん…」
「綾、それでも僕はね」


君を守りたいと思っている。


柔らかで控えめで、けれど意志を孕んだ言葉だった。綾は驚いたその後に、ゆっくりと笑んだ。何度も何度も小刻みに頷いた。沖田の気持ちが痛いほど嬉しかった。
あなたがいれば私も嬉しいと、彼女は言いたかった。けれど言葉にならなかった。喉の奥で言葉がつかえて何も出てこない。代わりのように何度も何度も頷いて、そして彼女は沖田を見つめた。そうしていれば気持ちが溶け合うかのように見つめ続けた。


沖田は綾に優しく微笑むと、首を傾ける。息がかかるほど顔が近づいて綾は自然と瞼を閉じた。視界が閉ざされると何故だか余計に沖田を近くに感じた。触れ合った唇が温かい。彼女は沖田の着物を握りしめる。病人とは思えぬほど力強く沖田は綾を引き寄せている。


雨だけがただしとしとと降り注ぐ。世界にはまるで二人しかいないように他の一切を遮断して、雨音が静かに響いていた。





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