土方の部屋は相変わらず整理されているがどこか物が多い印象を持たせる部屋だった。文机の上や横には山のように書物が積まれ、部屋中書で溢れている。部屋の広さに対し主が持ち込む書の量が異常なのだろうと綾は思った。 土方は座布団を二枚取り出すと一枚を綾に寄越した。そこに座れということらしい。恐る恐る綾は座する。窓からは障子越しに月明かりが降り注いでいた。
「風間に負けたか」
何の前置きもなく、静かに土方は言った。綾は目を見開くと土方を呆然と眺めた。土方はいつもと変わりなく無表情に近かった。特別返事をせずとも綾の反応で読めたらしい。彼はそうかと嘆息すると腕を組んだ。
「だがお前がそれくらいでそんな顔をするとは思えねぇ。…何か言われたか」 「…それは」 「何を言われた。何を、知った」
見ていたのではないかと勘繰りたくなるほど土方の言葉は的確だった。本当に鋭い人だと綾は舌を巻いた。 誤魔化しも嘘も許さない人だ。土方をそうした意味で負かすことなど到底不可能だと知っていた。元より綾は弱気になっていた。平助と斎藤が去って以来、彼女自身気づかぬうちに弱っていた。沖田には言えぬことも多い。沖田の前で弱音は吐くことが出来なかった。誰よりも今一番辛いのは沖田だと、傍にいる綾はよく知っていた。
沈黙が闇と共に二人を包んだ。月明かりだけが妙に明るい。畳に落ちた光を眺めながら綾は息を吐いた。傍らに置いた刀は既に貰ってから随分経つ。南紀重国。今は亡き愛する人の忘れ形見だ。この名刀はいつでも思い出させる。徳川血筋の姫と、葵紋は語っていた。
「薩摩との、島津家との婚姻の話、どうやら養父上の虚言ではなかったそうなのです」 「…なんだと」
流石の土方も知らぬ情報だったらしい。片方の眉を吊り上げて土方は驚いていた。 綾は笑みを零した。それは自嘲の笑みだった。
「尤も私にその話をした時は既に断った後のようでした。この局面で養父上は何の臆面もなく縁組を断られた。会津にとって薩摩との同盟は要。それを解らぬ愚者ではありますまいに…」
言えば言うほど言葉が詰まる。確かに自分は決断した。会津の姫としての生き方ではなく、沖田と共に一介のただの娘として生きる道を選んだ。しかしそれとこれとは別である。元々綾の耳に入った時には縁組はなかった。容保が決断したのだ。それはあってはならぬことだった。
「私はどうすれば良いのか解らない。正直言えば少し安堵していたのです。自分が縁組を断ることによって会津が辿る運命が揺らぐことを恐れた。それが無かったのだと聞かされて許されたような気さえしていた。…愚かだったのです。本当に私は、会津の姫を名乗る資格などない」
秘密裏に全てを処理した容保は何を考えていたのだろう。容保は堅物で真面目な男だ。慣習や序列を大事にし国の行く先を視野に入れる、藩主という肩書に相応しい男だと綾は思っていた。その容保が縁談を断った。家茂の命令があったとはいえ、あれは羨望に近くまた家茂自身既にこの世の人ではない。誤魔化して縁談を受け入れた方が、会津のためにはなったであろうに。 容保が縁談を断った理由など一つしかない。綾のため、ただそれだけだった。
「風間が言うには久光公は大層なご立腹だったそうです。必然的に会津は薩摩を侮辱したも同然。言いがかりをつけられてもおかしくない」
島津久光は現在の薩摩藩主である茂久の父であり、実質島津の権力者である。その人を怒らせたということは、会津にとってとても歓迎される状況ではなかった。 あの時の仕返しと言われてしまえばこれほど弱いことはない。会津が口を噤まざるを得ないに十分な理由を与えてしまった。
「私は会津を滅ぼすに相応しいほどのものを与えてしまったのです…」
国を幸福にするどころか、不幸に導いている。破滅への道を歩んでいるのではないだろうか。不安が胸を切迫する。何より自分がその事実を知らずのうのうと生きていた事実に腹が立った。知らぬが一番の罪だ。知らなかったでは済まぬことも世の中にはあると、綾は強く思っていた。
土方は堅く口を閉ざし黙って綾を見ていた。再び訪れた静寂の中に虫の音が混じる。綾はいつの間にか俯いていた。傍らの南紀重国がこれほど自分に相応しくないと思ったことなどなかった。
「それでお前はどうするんだ」
沈黙を裂いたのは土方だった。顔を上げた綾を土方は真っ直ぐ見つめ、淡々と問う。
「断っちまったモンはどうしようもねぇし、失ったモンは返ってこねぇ。で、それでお前はあきらめるのか。ただ絶望して蹲っているのか」 「土方、さん…」 「風間が言ったことは本当だったと、容保様がやったことは間違いだったと、総司の傍にいるのは罪と己を罵りながら膝を抱えているつもりか」
辛辣な言葉に胸を刺される。全てが図星だった。ここで愚痴を吐いたところで現状など変わりようがない。
「違い、ます」
震える声で否定する。綾は何度も頭を振った。結局選んだのは綾自身だ。もしも容保が引き受けていたとしても断ろうと覚悟した。あの時の気持ちに偽りはない。
「私が成すべきことは…」
瞳を閉じると走馬灯のように思い出が駆け巡った。家茂の願い、容保の想い。自分を引き留めてくれた時の沖田の覚悟。そうだったと思い出す。揺らいでいる場合ではない。まっすぐ立って歩かねばならない。最早自分は自分だけのものではない。綾を愛した人たちが作った道を踏みしめている。
「選び取った道を歩み己が己であること。それを成すために働くこと」
近藤の元で働くことを決めたのも、沖田の傍にいることを選んだのも自分の責任だ。千鶴を守ろうとしたのだってそうだった。誰にも強要されなかった。自分自身で全てを選んだ。
「私の決断が愛する人たちを破滅へと導かぬよう、死力を尽くすこと」
綾は真っ直ぐ、揺らぐことなく土方を見据えた。その漆黒の瞳には光が宿っている。強き瞳にようやく普段の彼女を見つける。迷いを消した瞳はどこまでも力強く、折れることはない。
「綾」
ふっと息を吐くように土方は笑んだ。緩やかに数回頷くと目を細める。敬愛と慈しみを籠めた眼差しで綾を見た。
「それでいい」
ようやく綾も微笑んだ。現状は何も変わっていなくとも改めて決意をすることで道が拓けた。動揺は既に霞の如く消え去っている。 ありがとうございますと深く頭を下げた漆黒の髪を月明かりが照らす。土方は目の前の彼女の真意を汲み取り、今度は優しく微笑んだ。
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