いつの間にか風間との距離は狭まっていた。考えている場合ではないと綾は我に返る。会津のことを考えるのはひとまず止して、今は目の前の敵をどうするのか思案せねばならない。風間から目を離さず斜め後ろを窺うと、千鶴が気遣わしげに見ていた。自分のことで精一杯になっても咎められぬ事態というのに優しい子だ。綾は再び風間を見据えた。怒りを発散し冷静に風間を見た。
「兎にも角にもここは引いていただきましょう、風間殿」 「我らとて何の考えもなくかような場所にいるわけではない。もう一度言おう。その女を寄越せ」 「お断りします」 「一戦交える他なさそうだな」
すらりとした刀に月の光があたって光る。特に構えたりはしなかったが風間の周辺の空気が張りつめた。 綾は刀の柄に手を掛けたまま小さく息を吐く。風間は彼女より随分上手にいる剣士だ。型などない掟破りの剣技だが間違いなく強い。しかも半ば力押しな部分もある。あの沖田でさえ勝てなかったものに綾がどうにかなるわけないと解っていた。それでも彼女は引けなかった。後ろで震える大事な人を守るためには引くわけにはいかなかった。
「千鶴」 「はい」 「早く行きなさい」 「でも…」 「正直あなたを庇いながら戦える相手じゃない。一足先に沖田さんのところへ」
綾の声は震えてなどいなかったが、僅かに緊張を感じ取ったのだろう。千鶴は堅い表情のまま頷くと、強張った足を無理やり動かして走って行った。
「まぁ、良い。直ぐに追いつく」
逃したというのに風間に焦った気風はなかった。それが却って不気味だと綾は思う。逆上でもしてくれた方が戦いやすいというものを。 綾は一歩下がると間合いを読む。鬼相手に間合いを取っても読み違えると思ってもせざるを得なかった。圧倒的に彼女は不利だった。
勝負は一瞬だった。たん、と風間の右足が綾の間合いに踏み込んだ瞬間、綾も歩幅を一歩縮める。唸りながら鞘から抜け出した刀が風間の喉元目がけて一直線に飛ぶ。風間は眉を顰めたまま肩を引いて居合を避けた。振り落とされる刃が今度は綾の頭を目がける。綾は足を引いて身体を捻り、一歩下がった。廊下端の木柵に足が当たる。振ってきた刀を自らの刀で受け止めた。
格段の力の差に綾は歯を食いしばった。何度も沖田や斎藤の刀を受け止めたことがあるが、それとは比べものにならぬほど力強かった。しかも風間は余裕そうな表情を浮かべている。これが鬼の力かと刀を精一杯支えながら綾は思った。
「雪村千鶴は貰っていく」
笑みを落とすと風間は刀に入れた力を急に抜いた。勢い余って前のめりになった綾の腹に風間の膝が入った。強烈な痛みと吐き気で綾の目の前が真っ白になる。倒れた彼女を一瞥し、風間は廊下を踏み鳴らして遠ざかって行った。
意識を何とか保たせたまま綾は吐き気を堪えた。峰打ちでないから意識を保っていられるが心情は惨めだった。きっと己が女だからと気遣ったのだろう。侮蔑だと思う一方、そうとしか思わせられない自分が情けなかった。
「ちづ、る」
頭上に転がった刀に手を伸ばす。震える指先で掴み、反対側の手で床に手をついた。吐き気はまだ収まらない。痛みのあまり生理的な涙が眼の端に浮かんでいた。覚束ない足取りで立ち上がると綾は刀を仕舞った。 痛みより恐怖や屈辱が襲う。千鶴を奪われることが恐ろしかった。自分を信じて駆け出した千鶴を裏切ることになる。綾は大きく息を吐くと歩き始めた。脂汗が滴るが気づかぬふりをした。
沖田の部屋に行こうとして、その割にやけに静まり返っていると思った。少し考えた後、彼女は踵を返す。相変わらず腹痛が酷い。本当は今にも蹲りたかったが堪えた。気力だけで前に進んでいた。
足を引きずるように進むと門の方からは変わらず激しい剣戟の音がした。何を言ってるのか解らないが、怒号や唸るような声も聞こえる。建物の門を曲がって綾が目にしたのは月下で輝く黄金の髪と、鋭い紫の瞳だった。
「土方さん!」
悲鳴のような叫び声で我に返る。あれは土方と風間だった。凄まじい肌を差すほどの殺気と緊迫した空気に綾は足を止めた。目にもとまらぬ速さで刀と刀が交差する。金属の触れ合う甲高い音が夜の闇に響いて空気を震わせた。耳が痛いほどの音に思えた。 足が止まったのは威圧されたからだった。それほどこの二人の戦いには逼迫した空気があった。
「やめてください!」
その時に視界の先で桃色の物体が動いた。後ずさった土方の前に飛び出した少女に綾だけでなく土方や風間も息を飲んだ。
「千鶴…!」
目を見張った視界の先で千鶴は小太刀を構えていた。刀の先端は震えていて彼女の恐怖を示している。なのに千鶴は動こうとはしなかった。鋭い目つきで風間を見据え、まるで土方を庇うように立っていた。
「何故人間などに与する。どうせ裏切られるだけだぞ」
苛立ちを混じらせながら風間が吐き捨てた。月明かりの下で風間は険しい顔をして千鶴を見据えている。飛び出してきた千鶴が理解出来ないようだった。鬼の中でも上位に属する、名家の生まれであるはずの千鶴が、風間家当主ではなく一介の人間を庇うことが信じられないような顔をしていた。
「あの作り出された紛い物の鬼を見ただろう。あんなものを作り出す愚かな奴らと共にいることに何の意味がある」
あんなもの、と言う声音が殊更厳しかった。羅刹のことを蔑んでいるのだ。いてはならない、鬼でも人でもないもの。本物の化け物。それを作り出してしまったことを新選組自身悔いているのを見抜いたような物言いだった。
千鶴は大きな瞳を揺るがし、されどどこか定まったような視線で風間を見つめ返した。
「それでも、信じているから」
澄んだ声は闇を割いて光を灯すようだった。風間は顔を顰めた。刀を振りかざしたまま静止し、そして滑らかにその刀を仕舞った。 興が削がれた。それだけを口にすると風間は鬼たちを引き連れて闇夜に消えてしまった。
へたり込んだ千鶴を土方を始め永倉や原田が労わる。殊に原田は千鶴に駆け寄って頭を撫でながら労いの言葉を言っているようだった。 綾は茫然としながら足を崩した。廊下に座り込んで息を吐く。自分は何と無力なのだろう。愚かさに吐き気を覚える。千鶴は強いと彼女は思った。確かに剣術では綾は遥かに越している。だが風間を前にしてどうだろう。圧倒的な力を前にして怯んだのは綾で、動揺したのも綾だ。同じように心を揺るがす言葉を吐かれたというのに千鶴は真っ直ぐだった。千鶴は恐れることなかった。
自身の情けなさに苛立つ。これで千鶴を守ろうなど、どの口が言えたものか。千鶴は守られるほど弱くない。これではまるで千鶴のことを辱めているような気さえした。侮辱もいいところだと綾は唇を噛んだ。
「綾」
突如目の前に現れた人に、綾は驚き顔を上げた。随分自分の中に籠っていたらしい。彼女にしては珍しく人の気配を察することが出来なかった。 土方は訝しげな眼差しで綾を見据えている。いつの間にかこちらまで来ていたらしい。そういえばこの廊下は土方の自室へ向かうには近道だと、ぼんやり思った。
「何をしている」 「…いえ。駆けつけるのが少し遅かったようで、申し訳ありません」 「それはいい。何をしているんだって訊いている」 「少しぼんやりしておりました。すみません。部屋に戻ります」
失礼いたしますと一礼し綾は素早く踵を返した。その背を土方は困惑を浮かべたまま眺めていたが、すぐに待てと呼び止めた。
「綾、少し俺に付き合え」 「でも…」 「言っておくがこれは副長命令だ。逆らうは隊規に反すると思え」
振り返った彼女の瞳に、土方の濃密な紫色の瞳が映った。射抜くほどの強い眼差しで土方は静かに見据えていた。一拍置いて綾は頷く。拒絶など出来なかった。 土方はそれを確認すると堂々とした足取りで廊下を歩き始める。仕方なく、綾は土方の背に続いた。
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