その日の夜のことだった。自室で綾は書き物をしていた。平助が抜けて以来隊の組長を兼ねており多忙を極めている。夕刻の巡察の報告と隊士への指導業務の報告書を書いていた。睡眠に費やす時間は格段に減っていたが、綾は不満を漏らさなかった。これが自分の選んだ道だと、そう思っていたからだった。
そろそろ就寝の準備をしようかと息をついた彼女の耳に轟音が聴こえた。一瞬目を見張り、それから息を飲む。立ち上がった綾の手には刀が握られていた。
廊下に出ると空気がざわめいていた。少し離れたところから剣戟の触れ合う甲高い音が聴こえてくる。侵入者、不審の者。綾は口元を堅く結んだまま廊下を走る。新選組に押し入ってくるような大胆な輩は限られてくる。
「雪之丞さん!」
正面の角から現れたのは島田だった。巨体を揺らしながら彼もまた眉間に皺を寄せている。寝間着ではなく平服姿だったので彼もまた仕事をしてたのだろう。
「この騒ぎは一体」 「鬼です。鬼が襲来しました」
最悪だ。綾は心の中で悪態をついた。予想していなかった訳ではない。だがそれ以上に一番当たってほしくない面子だった。長州や土佐浪人が押し掛けるほうが何倍もマシだった。彼らはまだ人間だし、そうなれば武力に秀でた新選組で容易に太刀打ちできる。しかも浪士を捕縛出来て一石二鳥だ。しかし相手が鬼となるとそうはいかなかった。人間の何倍もの力を持った鬼を相手にするなど、幼子が剣術の遣い手に向かうようなものだった。そもそも土俵が違うのだ。
綾は顔を顰めたまま素早く周囲に目を走らせると、島田を見据えた。
「それで人数は?」 「詳しくは解りませんが、どうやら三、四人ほど」 「名前は解りますか」 「風間千景という鬼は確認しています」 「…では狙いは」 「はい。雪村くんを」
頷き合ってすぐに綾は踵を返した。風間がやってきたとなれば目的はたった一つ。雪村千鶴を攫いにきたのだろう。鬼には女が少ないと、家茂も千も言っていた。綾は千鶴がどんなに危うい立場にあるか知っている。そしてその千鶴を守ることが自分の使命の一つであることも。
千鶴の部屋に到着する前に千鶴と出会った。ちょうど千鶴も異変を感じて廊下に出たところだった。千鶴は綾の堅い表情に唇を引き結んで、どうしたんですかと問った。
「何があったんですか」 「落ち着いて聴いて。風間たちがやってきた」 「風間、さんが…」 「目的は解るね」
小さく頷いた千鶴の表情が曇る。不安と怯えを滲ませたそのかんばせに綾は憤りを覚えた。無論、風間に対する怒りである。人攫いにやってくるなどあまりにも新選組と千鶴自身を馬鹿にしている。綾は千鶴の手を掴み、そのまま走り出した。
「ここは危ないから離れよう。沖田さんの部屋まで行こう」 「沖田さんの、ですか」 「襲撃は門の近くだから反対側に逃げた方がいい。沖田さんと一緒なら万が一の時も助けてあげられる」
千鶴の手を引いたまま綾は言った。大丈夫だから。少し前を走る綾から千鶴の表情は見て取れなかったが、繋いだ手に千鶴は力を籠めて返事をした。
「見つけたぞ」
角を曲がった途端に声が聴こえて綾は立ち止まった。踏鞴を踏んで背にぶつかった千鶴に静かに、と耳打ちしつつ、綾は真っ直ぐ前を見据えた。瞬きすら許されないほど緊迫した空気が満ちている。 月明かりに照らされた目の前の髪は黄金色に輝く。闇夜に浮かぶ白い着物。それが恐ろしく似合う人物だった。 風間は右手に刀を掴んだままゆっくり歩み寄ってくる。大股の悠然とした歩き方が彼の自信を示しているようだった。
「かような夜更けに何事ですか。夜這いにしてもあまりに情がないようですが」 「会津のじゃじゃ馬姫か。そこを退け」 「退きません。夜這いならせめて伺いの和歌でも送るべきでしょう」 「和歌か。ふん、流石は大名家の姫君といった発想だな」 「お褒めに預かり光栄です。ご理解なされたならば引いていただきたい」 「それは出来んな」 「これは薩摩の同盟藩会津の蓮尚院からの願い、といっても」
千鶴を背に隠すように庇って綾は言い放った。すると風間は鼻で笑う。まるで綾が滑稽なことを言ったとでもいうような態度だった。 思わず顔を顰めた彼女に、風間は嘲るような笑みを向けた。
「会津が同盟藩?笑わせてくれる。流石は時流を読まぬ会津の姫」 「…どういう意味ですか」 「そのままの意味だが。綾姫は知らぬうちに世間に疎くなられたのか」
刀の柄に手を当てたまま綾は風間を睨むように見据える。背の後ろで千鶴は息を顰めていた。身を震わせている彼女に意識を配りつつ綾は風間の次の言葉を待った。揺らがされてはいけないと思うのに風間の言葉でどうしても動揺する。表情は自然と強張っていた。 風間はもう一度鼻で笑った後に、歌うように言葉を紡いだ。
「そもそも同盟藩だからと我ら薩摩に願い出るとは些か恥知らずとお見受けするが、それはどうお考えか」 「恥知らず?」 「縁談を断ったのは会津側であろう。久光がどれほど怒っていたか想像に難くないはずだが」 「縁談を、断った…?」
綾は目を見開く。そのようなこと、一つしか覚えがなかった。薩摩との縁談といえば先日の茂久との縁組である。しかしと同時に思う。あれは茶番であり嘘だと容保は言った。 驚く綾に風間は僅かに眉を顰めた後、合点がいったように目を細めた。
「なるほど。綾姫は随分父君に愛されているらしい。知らされぬうちに縁談を断ってくれたのだな」 「…口を慎みなさい」 「会津の愚かさもここまで来ると立派なものだ」 「慎みなさい!」
声を荒げた綾に風間は口だけで笑う。頭の中が真っ白になるようだった。綾の手先は怒りで震えていた。目の前の風間に対してというより、自分自身に怒りを覚えていた。つまりはあの縁談は本物だったのだ。容保は恐らく自分に気遣わせぬように言ってくれただけであって、縁組は嘘だが存在はあったのだ。
「愚かな姫君だ」
風間が言い放った一言に足が掬われるようだった。綾は血が滲みそうなほど唇をきつく噛みしめて睨み付けた。
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