五月雨 | ナノ









容保の計らいで沖田と綾は屋敷に一泊することになった。
来る時綾が乗った籠に今度は容保が入り、静かに会津藩邸へと帰っていく。
その姿に二人は長い間頭を下げた。


二人は千鶴にも入念に礼を言った。照れて俯く彼女の手を綾は優しく包み込む。
自分のことで精一杯のはずなのに、何故この娘はこんなにもお人よしなのだろう。不思議になる。しかも先日自分が敵の娘であると知ったはずであるのに。
そう言えば、千鶴は驚いて目を見開き、そして憮然とした表情をした。


「言ったはずです、綾さん。私はあなたを恨んでなんかいない。それどころか大好きなんです。理由なんて、それだけなんです」
「千鶴…」
「沖田さんと綾さんには私のような想いなんてして欲しくなかった。だからお節介しました」


その大きな瞳はどこまでも透き通って真っ直ぐだった。綾はただ、ありがとうとことしか出来ない。
そんな彼女の隣で沖田は呆れたように笑った。


「君のお節介ぶりもここまで来ると、もう何も言えなくなるね」
「…すみません」
「ありがとう、千鶴ちゃん。感謝しているよ」


俯いた千鶴の頭を沖田は撫でる。千鶴は目を細め真っ赤になって首を振った。


千鶴が染と共に屯所に帰ってしまうと、途端に静寂が訪れる。二人は屋敷の広間にいた。
綾は先刻染に手伝って貰って着替えを済ませた。明日そのまま屯所に帰らねばならないので、男装姿に戻った。煌びやかな衣装よりも気が抜ける。そこに自分の本質がある気がして綾は苦笑いをした。自分は元来、姫君など向いていないのだろう。刀を振り回している方がしっくりくるなんて、普通ではない。
だがそれが今の彼女にとって、何より嬉しかった。


「脱いじゃったんだね」
「はい。流石に白無垢では動き辛いですから」


縁側に座る沖田に茶を差し出すと、綾も隣に腰掛ける。真っ暗闇に大きな月が浮かんでいた。月明かりは沖田の横顔を照らしている。彼は綾を見遣ると、残念だなぁとひとりごちた。


「綺麗だったのに勿体ないね」
「…仕方ありません。あれは私の物ではなく、会津の物ですから」


会津葵が入った白無垢は会津の姫の証だ。もう二度と着ることはない。生涯、会津藩主の娘として嫁ぐことなどなくなった。
今日からの自分はただの“綾”だった。


無論、身分は失くした訳ではない。実は蓮尚院の名は本当は捨てられていなかった。綾は今まで通り会津では蓮尚院である。それでも帰る機会がほとんどなくなったので、呼ばれることもそう無いだろう。姫としての価値を失くした綾に投資するほど、会津は恵まれている訳ではない。冷たい訳ではない。その道を選んだのは、他ならぬ綾自身。故に後悔はなかった。


「姫姿の君、ようやく見られて良かった」


ぽつり、と沖田が呟く。顔を上げた綾に、彼は穏やかに微笑んだ。


「昔、君の姫姿が見たいと言ったことがあったよね。あの頃はまだ自分の気持ちに気付いていなかったけれど、今思えばあの頃から君への想いは芽生えていた」


新緑の香りを孕んだ風が頬を撫でて過ぎていく。沖田の色素の薄い髪がふわりと舞った。


「僕は君に一つ話しておかなければいけないことがある。聞いてくれる?」


どこまでも真剣な沖田の表情に気圧されて頷く。沖田は軽く瞳を閉じるとそのまま空を仰いだ。月明かりの下の横顔は青白い。このまま消えてしまうのではないかと思えるほど、儚い面立ちだった。


「僕は労咳だよ」
「労、咳」
「そう、労咳。それも随分進行している。正直な話、今、不逞浪士か何かに襲われても一人も斬れないかもしれない。君を守ることすら出来ない状況だ」


少し自嘲を孕んだ声音は、闇の中に溶け込んでいく。綾は口を挟まずに話の続きを促した。
本当は気付いていた。沖田がそうなのではないかと、前から疑っていた。それでも本人の口から聞くと違う。事の重大さに胸が押し潰されそうになる。唇を噛んだ。


沖田はそんな彼女に困ったように笑みを落とした。


「君が僕の傍にいる意味なんてないんだと思う。今でも少し怖い。いつ死んでもおかしくない僕が君を望むなんておこがましいのだろうかと、そう思えてならない気持ちもあるよ。でもね」


ふと沖田は綾の手を握る。翡翠色の綺麗な瞳が、彼女だけを映す。まるで吸い込まれそうな程透き通った、神秘の泉のように美しい目だった。


「君が欲しい。僕は君だけが欲しくて仕方ない。他の誰かにくれてやる気なんてないんだよ」


静かな熱が籠った言葉だった。綾の瞼が熱くなる。ずるい人だと彼女は思った。こうしてあっさりと全てを浚ってしまう。宿命も何もかも捨て去って、最期には自分を残すというのに、奪っていってしまう。
沖田の手を握り返した。確かに労咳は恐ろしい。細くなった沖田の指先が深刻さを物語っている。
それでも覚悟は出来ていた。気持ちが変わることなどない。


「私を沖田さんの傍に置いて下さい。何も出来ない世間知らずで、あなたに何も与えられないかもしれない。それでもこの気持ちだけは誰にも負けるつもりはありません。だからどうか」
「綾ちゃん…」
「傍にいさせて」


沖田は繋いだ手を勢い良く自身に引き寄せる。綾は沖田の胸に雪崩れ込んだ。二人は隙間もないほど固く抱き合った。互いの温度を忘れたくないと願った。


「馬鹿だなぁ、綾ちゃんは」
「沖田さんに言われたくありません」
「僕なんかに捕まっちゃって、どうしようもないね。君って本当に馬鹿」
「あなたの方こそ、私みたいな面倒な女を選ぶなんて。奇特ですね」
「そうだね」


すっと沖田の手が綾の髪を梳かすように撫でる。その指先が優しくて、綾は瞼を閉じた。そうでもしないと涙が溢れてしまいそうだった。


「馬鹿な君が好きだよ、綾ちゃん」


頭上から降る沖田の声に、綾は何度も頷いた。胸が締め上げられるように痛かった。


「最期まで、僕の傍にいて」
「…最期だなんて言わないでください」


綾の言葉に軽い笑い声を立てると、沖田はそうだねと言った。


「訂正。いつまでも傍にいてね」
「私の方こそ、お願いします」
「了解です」


満ちた月が二人の姿を優しく照らす。
沖田の香りに包まれながら、綾はようやく笑みを零した。








[] []
[栞をはさむ]


back