五月雨 | ナノ








染は二人を待たせ、部屋の中に声を掛けた。何故容保がこのような場所にいるのだろう。会津の者は染でだけであるはずというのに。そもそも父である容保が婚礼の場に出る道理はないし、綾は疑問を抱いたが口に出さなかった。今はそんなことを言うような余裕はなかった。
綾以上に沖田は緊張しているだろうが、表情には表れていない。普段より少し強張っているくらいだった。沖田は容保と対面したことがない。幹部とはいえ重役ではない沖田が容保と話すことなどほぼなかった。だから今回が初めてのはずだ。


「入りなさい」


中から低い声がした。間違いなく男性の声、そして容保の声であった。
昨日対面して、会津を頼むと任されたばかりだった。申し訳ない気持ちは大きい。だがそれでももう、気持ちの上で譲れぬようになっていた。


下座の中央に並んで、綾と沖田は深々と頭を下げた。染は戸口の傍に座る。上座にいるはずの容保は長い間口を利かなかった。
畳の目を見ながら綾はきつく口を引き結んだ。


「面をおあげなさい」


やがて固い声が頭上に降ってきた。一拍置いて綾が顔を上げると、沖田もそれに倣う。
容保は声音と寸分違わず強張った表情を浮かべている。それは至極当然のことだ。婚礼道中で止めたいなどという姫など、前代未聞である。


綾の心には一抹の迷いもあった。これは消し去ることが出来ない迷いであった。姫としての最後の良心だろうと綾は冷静に分析する。沖田を選ぶことで失うものは計り知れない。その道が正しいとは思えない。思ってもならないのだと、これから自分がやることは間違っているのだと自覚せねばならなかった。


「大まかな話は染から聞いた。しかし綾殿、私はあなたの口から詳しい話をお聞かせ願いたい」


怒りや焦りはない。ただ、どこまでも静かな声音だった。容保は真っ直ぐ綾を見据えている。彼が聡明だということを思い出さざるを得ない、澄み切った目をしていた。
綾は軽く瞼を閉じ息を繰り返す。そして再び目を上げた時、その瞳は強い光を湛えていた。


綾が主に話し、時折沖田が補足した。二人が話す間、容保も染も口を挟まなかった。今自分が話しているのが全て感情論でしかないことを、綾は実感していた。これらはただの我が侭だ。都合のよい言い訳でしかなかった。
だからこそと綾は一生懸命話し終えた。包み隠さず自分の気持ちを言うのは抵抗があったが、それこそが誠意と思って話した。


どれほどの時間が経過したのだろうか。ようやく口を閉じた綾は、そのまま容保を見た。容保は表情一つ変えていない。気持ちばかり先ほどよりも和らいだ顔をしていた。


「つまり綾殿は薩摩藩島津家の正室よりも、そこにいる沖田なる者の妻になる方が良いという訳ですか」
「勝手ながら、私にとって価値あるものはそうなのです」
「もし沖田を選ぶというなら、あなたは会津の姫を捨てねばならない。婚姻を破談にするにあたって当家としてもそれなりの理由が必要です」
「私の存在を完全に抹消する、ということですね」
「左様、流石話が早い。破談にするための唯一正当な理由といえば、あなたの死でしかない。あなたが急な病か何かで死ぬよりないのです」


構わないのですか。あくまで淡々と容保が尋ねる。すると綾は間髪いれずに頷いた。


「構いません。むしろ私にはもう、会津の姫でいる資格などない。“綾姫”をどうぞ殺して下さい」


後悔などなかった。身分を失うことは最早仕方ないことだ。薩摩への面目を保つ為には姫の死しかない。公式記録から完全に消し去り、会津に戻ることがなくなる。それだけが会津にかろうじて残された選択肢だ。


真意を確かめるように容保は彼女を見つめていたが、暫しの後に深く頷いた。


「あなたの真意は解りました。ではもう一つ。…沖田」
「はい」


突如名を呼ばれた沖田だったが、表情に動揺はない。そんな彼に容保は視線を移した。


「綾殿を貰い受けるという覚悟は磐石なのだろうな」
「無論、僕も覚悟の上です」
「綾殿は姫という身分を捨てる。事の重要性を解っているな?」
「重々承知です」
「お前は綾殿を生涯傍におかねばならない。大名家の地位を捨て去り、会津も同盟を失う」


厳しい言葉を投げかけ、容保は沖田を見つめる。当の沖田の方は真剣な眼差しで、承知していますと繰り返した。


「僕には地位も名誉も金もない。大名家の姫君なんて本当は雲の上の上のお方です。島津家に勝てる要素もないし、比べることさえおこがましい。それでも、僕は綾姫様が欲しい」


癖のある沖田の声が部屋中に響く。
夕陽は既に沈みかけ、夜の帳が障子を紫色に染めていた。


「僕に勝てるものがあるとすれば、それはたった一つです。綾さんへの気持ちだけ、それだけです」


沖田の真っ直ぐな言葉に綾は胸を打たれた。それだけしかないというが、そのたった一つが彼女にとって一番嬉しいものだった。唯一求めたものだった。
幼少の頃から他人に虐げられ遠巻きにされた綾にとって、何より欲しかったもの。家茂以外は与えてくれなかった、温かい幸せだった。


容保は二人をゆっくりと見比べていたが、ふと笑みを零す。不審に思って眉を顰めた綾を尻目に、彼は部屋の片隅に控えた染を見遣った。


「なるほど、これは合格だ」
「はい、そうでございますね」


唐突なやり取りに綾と沖田は顔を見合わせる。
一体どういうことなのか。されどこの疑問は呆気なく氷解した。


染が突然部屋を仕切っていた襖に手を掛ける。そしてそのまま勢いよく開いた。
その先にある姿に綾は勿論、沖田までも驚く。そこには薄桃色の小袖を着た娘がいた。


「千鶴?」


信じられない気持ちのまま綾が名を呼べば、千鶴は困ったように眉尻を下げた。状況が解らず二人は混乱の渦に飲まれる。容保がいて、更に千鶴がいて、事情が全く読めなかった。
そんな二人を見て容保は楽しそうに笑う。


「お染、これは作戦が上手くいったようだな」
「本当に、そうですね」
「作戦?」


思わず問い返した綾に、容保は深く頷いた。


「そうです、作戦。これは私と染、そしてそこにいる雪村千鶴が立てた作戦なのです」


名を呼ばれた千鶴は顔を赤くして俯く。
それを見て綾は大きく目を見開いた。





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