五月雨 | ナノ









綾の生活が一気に変化した。
蓮尚院の名を返上し、正式に元通りの会津藩松平容保の娘綾姫に戻った。
隊務の合間に黒谷の会津藩邸に通い、今後の打ち合わせを重ねた。尤も話は容保の方で進めているらしく染から経過を聞くだけであったが、それでも実感が湧いてきた。


本日も綾は打ち合わせを終え、夕刻に屯所に戻った。部屋に戻って荷物を置くなり炊事場に向かう。
夕食の当番から沖田の分の膳を受け取り、部屋へと急いだ。先日までは千鶴と交代だったが、最近では多忙な綾は外れることが多かった。本日は偶々時間が合ったので運ぶことにした。


あと何度こうして沖田の傍にいられるだろうか。障子の前で立ち止まり、不意に綾は思った。沖田の為に膳をあと何度、運ぶことが出来るのだろうか。


「誰かな?」


障子の向こうから声がして、綾は我にかえる。声は部屋の主である沖田だった。部屋の前で中に入らずにいるので不審に思ったらしかった。


「綾です」


声をかけると一拍の間があく。


「綾、ちゃん」
「夕餉をお持ちしました」


僅かに意外そうな色をにじませた声に、綾は静かに返事をした。
屈んで脇に膳を置く。障子に掛けた指先が小刻みに震えている。緊張しているのだ、と綾は唇を軽く噛んだ。沖田の前ではいつでも平静ではいられない。心がざわめいてしまう。
息を吸って落ち着け、一気に障子を開いた。部屋の中は閉め切っているせいか少し埃っぽい。籠った空気は生ぬるかった。


部屋の中央に布団が敷いてあった。沖田は半身起こしている。彼は綾の姿を認めると、久しぶりだねと言った。


「ここ数日見かけないから、どうしているのかと思ったよ」
「すみません。ちょっと忙しくて」
「そっか」


あくまで柔らかく沖田は返事をした。嫌みや皮肉を言われた訳ではない。というのに綾は少し残念な気がして、そんな自分に驚いた。心のどこかで追及されるのではないかと冷や冷やしていた。多忙の原因を安易に口にしたくはなかった。それが沖田相手なら尚更だ。
しかし反面、沖田が勘付いているだろうことも解っていた。嫁入り前の準備で忙しいのだろうと、尋ねないのが優しさなのか。何にせよ、沖田の前でそんなこと話したくなどなかった。


沖田に膳を渡し、おもむろに綾は席を立った。せめて空気の入れ替えをしようと窓に近寄る。沖田の気分が良い時にでも掃除をせねばならないだろう。窓の桟には薄らと埃が溜まっていた。マメで綺麗好きの千鶴が放置するとは思えない。これは単に沖田が床から離れられないのを示していた。


空気の入れ替えをしてついでに文机の上に乗った花瓶を手に取る。花が少し萎れかけていた。それを手に一旦部屋の外に出て、流し場へ向かう。本当は部屋の隅に置いてある木桶も洗いたかった。けれどそれに触れることを沖田は嫌う。沖田は自分の病が直に出るのを恐れているようだった。
そして綾も沖田の病が怖い。自分の命はさほど大切でないのに、今では他に大事にしたいものが増えた。沢山の宝物だった。それをもうすぐ手放さねばならなかった。


綾が部屋に戻ると、沖田は粥を半分以上食していた。とはいっても元の分量が少ない粥だ。元々食の細い人ではあったが、最近は目に余る。食欲のなさが病の深刻さを指しているようで、恐ろしかった。
恐怖を振り払うように用意していた急須に手を伸ばし、湯呑みに茶を漱いだ。


「ねぇ、綾ちゃん」


今まで黙っていた沖田が突如口を開く。少し驚いて肩を揺らした綾を見ることなく、彼は手元の粥に視線を落としていた。


「本当に君は、お嫁に行くんだね」


狭い部屋には声がよく通る。はい、と擦れた声で綾は返事した。場の空気が重い。それ以上の言葉を紡ぐことが出来ず、綾はただ俯いた。
沖田は蓮華を器に戻すと、不意に窓の外を眺める。空は青々として、雲ひとつなかった。


「いきたくないとは思わなかったの?」
「…それは」
「そっか、やっぱりいきたくないのか。そうだよね」
「でも、いかねばならないとも思っています」


二人は相変わらず視線を交えなかった。酷い顔をしている、と綾は瞳を閉じた。きっと今の自分は悲惨な顔をしている。こんな顔だけは沖田に見られたくないと、必死で俯いた。
覚悟が揺らぎかけているなんて、口が裂けても言えない。幼少の頃から覚悟していたことだというのに、沖田の仕草一つで脆く崩れ去っていきそうなことなど、とてもではなかった。


「私が嫁げば会津は安定します。むしろ島津との縁談は富をもたらすでしょう。民が幸せになれます」
「…そこに、君の幸せはないの?綾ちゃん自身の幸せは?」
「国の幸せが私の幸せ、です」


痛む心を抑えつけ、綾は気丈に言い放つ。黙っていた沖田だったが、やがてそっかと呟いた。
窓の外で鳴く鳥が沈黙をかき消していく。二人は互いに互いを見ず、長い間時を共にした。





[] []
[栞をはさむ]


back