五月雨 | ナノ









合議にさほど時間は要さなかった。綾は打ち合わせがあると、近藤、土方と共に未だ部屋に残っている。他の幹部たちは納得いかぬ顔をして部屋を出た。


沖田は自室までの道のりを歩いていた。夏に差しかかった為、随分暑い。薄着だというのに全く涼しくはなく、汗が止まりそうになかった。
足取りは重たかった。先ほどまでの話の内容が影響している。しかしそれだけではなく、随分前から彼の身体は侭ならなくなっていた。
人前では気力で歩いているが、いつ限界が来るかもわからない。近い未来、気力でさえどうしようもない時がやってくる。沖田はふと腰に手を添えた。少し前、例えば一年前は刀を身につけていた。刀は自身の一部だった。それが今では刀なしの方が多い。刀を下げるのは億劫になっていた。


誰にも言ったことはないが、彼は昼夜恐怖と闘っていた。死ぬこと自体は怖くない。刀を握った時から覚悟をしていた。初めて人を斬った時も、他の人のように動揺しなかった。何にも執着していない。がらんどうで、空っぽ。自分を評しようとすると、いつもそれしか浮かばなかった。何も無いのだ。何も無いから、何も躊躇しない。迷うことなどなかった。


ただ一つ、と沖田は思う。恐ろしいのは近藤に見限られた時だ。無論、近藤は沖田を捨てることはないだろう。いつだって気に掛けてくれるし、もし完全に刀を振るえなくなっても途端に態度を翻すようなことはない。
されど、近藤が沖田を頼りにすることはなくなる。そうでなくとも自分は近藤の一番ではない。あの男、土方の方がいつだって数歩先にいるのだ。その差を縮めるどころが広がってしまう。
土方に唯一勝てるのは剣術だった。沖田は天才と謳われた剣客だ。自分より強い者などほとんど巡り合ったことがない。一教えれば十を生む沖田を、師の近藤はそれは可愛がった。土方は年上だが、剣術に関しては沖田の方が兄弟子である。道場において年齢など関係ない。早く入った者が先輩だし、段が上の者が崇められる。


その唯一の取り得すら失くそうとしている。いつの間にか沖田は立ち止まっていた。自分の手のひらを見る。刀を握っていた時よりも、小さくなっている。指が細くて折れそうだ。
こんなのは自分の手ではないと笑い飛ばせたら良いのに。沖田は何度か手のひらを開いたり閉じたりとした。刀が抜けない訳ではない。でも刀を持つことすら出来なくなるのも時間の問題だ。緩々と、だが確実に弱っていた。それは沖田自身が一番濃く感じている。


「総司」


背後から話しかけられ、沖田は僅かに肩を揺らす。一流の剣客であるはずの彼が気配を察しなかった。その事実に傷つきつつ、表情には出さないで振り返る。沖田のすぐ真後ろには訝しげな表情を浮かべた原田がいた。


「お前、何してるんだ。こんなとこにボーっと突っ立って」
「…え?」
「具合が悪いのか?」


原田は心底案じているようだった。そんなに自分は顔色悪く見えるのだろうか。以前だったらこんな心配のされ方はしなかっただろう。やや斜に構えた考えを展開させながら、沖田は目を逸らす。平常心ではないと、自分で解るほど心が騒いでいた。
お世辞にも性格が良いとは言えぬが、だからといって他人の好意を無碍にするほど悪人でもなかったはずだ。病は心をも蝕むのだろうか。そんなことを考えながら沖田はようやく顔を上げた。


「別にどうってことないですよ。左之さんは心配性だなぁ」
「大丈夫ならいいんだけどよ。そんじゃ、なんだってこんなところに突っ立ってたんだ?」
「特に意味はないです」
「…もしかして、綾のことか?」


沖田はゆっくり顔を上げる。その瞳は原田を見ているはずなのに、目が合わなかった。


綾のこと、綾の嫁入り。沖田も場にいたから事の一部始終を知っている。篠山染と彼女の会話を黙って聞いていた。
原田や永倉のように表に出さなかったが、沖田自身動揺していた。綾の身分は入隊当時から知っていたし、いつかこんな日が来るとも思っていた。なのに動揺した。
嫁入り先が薩摩だということ、あからさまな政略結婚。それをあっさり受け入れた綾。話を聞きながら沖田は、自分は本当には解っていなかったのだと思った。綾が婚姻するという意味を、理解していなかった。


沖田は綾のことを好いている。自分の気持ちは自分が一番良く知っている、と彼は原田の言葉を思い返しながら思った。
綾の入隊当初、彼女のことを疎ましく思っていた。恐らく事情を知る中で一番あたりが強かった。姫様の気まぐれで近藤を煩わせている。そう思うと彼女の一挙一動すら憎かった。


だというのにいつからであろうか。自分の気持ちの変化に驚いたと、沖田は思う。
ずっと見ているうちに、一生懸命な人だと思うようになった。真面目で不器用で芯が強く、それなのに脆いところがある。知れば知るほど綾に惹かれた。


本気で好きになったからこそ、沖田自身と結ばれない運命を願ったのだ。綾の気持ちを沖田は知らない。無意識のうちに勘付かないようにしていたのかも知れない。
剣の前で死すら恐れぬと誓った心を、人を好きになることで失う気がした。だからといって平穏を求める気など毛頭ない。師の近藤の為に力を尽くすのが沖田の本望だ。
ただでさえそうなのに、沖田は労咳になってしまった。労咳の恐ろしさを解らぬほど愚かではない。いずれ剣か病か、あるいは両方の為に自分は死す。さすれば残される綾は悲嘆にくれるだろう。自分は何も残してはあげられない。何も、だ。
大名家の血筋である綾の嫁ぎ先は確実に自分より裕福で格がある。水仕事の一つもせず、飢えをしのぐこともなく、綺麗な着物を着て笑っていられるだろう。そのような生活を捨ててまで、自分と結ばれて欲しいなど願えるものかと沖田は思った。それが最善であると、彼は考えていた。


覚悟はしていたのに動揺したのは、薩摩に嫁ぐ運命だ。薩摩藩島津家は、沖田が想像した裕福で格式ある家柄である。実家の沖田家とは比べ物にならない。
しかし薩摩藩に妙な動きがあることを知っていた。沖田はあまり政は知らないし興味もないが、薩摩はいけすかなかった。直観的に嫌っており、彼らを信用する気など毛頭なかった。
そんな家柄に綾は嫁ぐという。原田が敵地に丸腰で飛び込むと言ったが、まさしくそれだ。会津松平家の娘で徳川血筋の彼女が平穏無事に過ごせるなど、ありえないだろう。最悪の場合、もし薩摩が寝返ったとしたら、島津家は容赦なく綾を殺すかも知れない。そう考えたら身震いがした。嫁入りというよりも、綾は同盟維持の為の道具であり人質だった。


「なぁ、総司」
「…はい?」


一人で考え込んでいた沖田に、唐突に原田が話しかける。一拍遅れて顔を上げた彼に、原田は真っ直ぐな眼差しを向けた。


「お前が何考えてんのか知らねぇけど、これだけは伝えておきたいから言う。本当は俺の口から話すのは間違ってる。それでも知らねぇってのは残酷だからな」


彼にしては慎重な前置きに、沖田は顔を顰めた。胸がざわつく。何かの予感がした。
原田は沖田を見据えたまま、息を吐くように口を開いた。


「綾はお前のことが好きだ」
「…え?」
「綾はお前を、好いている」


目を見開いた沖田の心に疑念が渦巻く。先ほどから消えるどころか大きくなる一方の疑念。
綾は果たして姫であることが幸せなのか。
それは曇りないはずの彼の心に迷いをもたらした。





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