五月雨 | ナノ








行燈の灯りがゆらゆら揺れる。畳に落ちた影を見ながら綾は息を整える。
心臓の早鐘も冷や汗も最高潮に達していた。人生においてこんなに緊張したことはないと思った。


「今まで、綾さんは私に優しかった」


沈黙を破ったのは千鶴だった。あくまで静かな声だった。冷静さを保ったままで、どこにも責めるような雰囲気はない。
誰もが千鶴の動向を見守る。頭を下げ続ける綾を、千鶴は大きな瞳で真っ直ぐ見据えていた。


「ずっとずっと優しかったのは、もしかして私が、“雪村の娘”だったからですか?」
「それは…っ」
「罪悪感を感じていたから、ずっと優しくしてくれたんですか?私に親切にしてくれて、傍にいて励ましてくれたんですか?」


思わず顔を上げた綾と、千鶴の視線が絡む。千鶴の瞳には強さだけが宿っていた。
嘘をつくことを許さない目だった。元よりこの場面で嘘をつくほど、綾は落ちぶれていないつもりだった。瞼を閉じてゆっくり左右に首を振る。そしてもう一度見据えた目は、もう揺れていなかった。


「それは違うよ」
「本当にそうですか?」
「確かにどこかに千鶴が雪村の娘だということはあった。けれど、優しくしたいと思ったのは私自身の意思だよ。出会ってから今まで一緒に過ごして、その上で千鶴のことが好きだったから」


綾も千鶴も互いに目を逸らさなかった。綾の言葉に偽りはない。雪村の娘だからという以上に、千鶴のことが好きだった。だから嫌われるのが怖くて、憎まれるのが恐ろしい。
見つめあっていたのはどれほどか。やがて先に目を逸らしたのは千鶴だった。不意に彼女はいつものように柔らかく微笑んだ。


「そうですか。それは良かった」
「千、鶴?」
「私も綾さんが好きですよ。徳川だとか会津だとか、はたまた新選組の方だとか、そんなの一切関係なく、好きです」


目を丸くする綾に、千鶴は優しい眼差しを向ける。まるで春の日差しを連想させる、温かい目だった。


「正直、徳川が敵だといわれてもピンときません。薄情ですが、父や母という人たちのことを覚えていないんです。私にとって父は綱道だけで、その他の記憶がありません。幼少の頃も解らないし。だからでしょうか、綾さんを恨むだなんて言えません」
「千鶴…」
「前に言ったじゃないですか。真っ直ぐで強くて優しい綾さんのことが好きですって。簡単に揺らぐような気持ちで言った訳じゃありません。それに当時全く関わりがなかったはずの綾さんを恨むなんて…。そんなこと出来ません」


すっ、と千鶴は手を伸ばすと、そのまま綾の手を握る。固く握りしめられたその拳を解すように優しく包み込んだ。
温かさが心地良くて驚く。綾が信じられないものを見るような目をして見つめるうと、千鶴は可笑しそうに笑った。


「許すとか許さないとか、償ってほしいとか、そんなの思いませんよ。私は、私が知ってる綾さんが好きなんです」


綾の胸に温かいものが広がっていく。言葉に出来ず、思わず俯いた。溢れそうになる熱をそのままに瞳を閉じる。千鶴に包まれた手のひらが温かくて、どこかつっかえが取れる気がした。


「千鶴」
「はい」
「…ありがとう」


礼を言った綾に、千鶴はもう一度笑いかける。それを後ろで見守っていた千も優しく微笑んだ。成り行きを見ていた一同の肩の力も抜けていった。


和んだ空気に近藤や、土方ですら安堵の表情を浮かべる。しかし千の顔が強張ったことに綾は気付いた。千は君菊に目くばせする。君菊は頷くと、そのまま視線を山南に向けた。


「それと山南さん。あなたにお報せしなければならないことが」
「私、ですか?」


訝しげに山南は眉を寄せる。どうやら自分にお鉢が回るとは思わなかったようだった。
誰もが視線を投げる中、君菊は苦悶の表情を浮かべる。まるで、告げること自体が辛いとでもいうように。


「今年に入ってすぐのことでした。明里が流行り病に罹りました」
「…え?」


ざわり、と心が騒ぐ。目を見開いた綾や、茫然と見つめ返す山南を尻目に君菊は瞳を閉じた。
苦い物を無理やり呑みこんだような顔をしていた。


「そして今月に入って…。明里が亡くなりました」
「亡くなった、ですって…?」
「医者に診せたり方々に尽くしたのですが、残念なことです」


悲しみを湛えた君菊と、俯く千。山南はそんな二人を交互に見遣って、動揺を隠せずにいた。
綾はおろか土方ですら掛ける言葉を探しきれず、ただ静かに見守った。


暫く経つと、千は新選組に残りたいと言った千鶴の意思を尊重して屯所を去った。
風間たちへの警戒を緩めぬよう忠告し、彼女は千鶴と綾に手を振った。




誰もいなくなった部屋に綾は一人残っていた。
胸の高鳴りがまだ解けない。緊張が残っているのだろうと、彼女は思った。
家茂から真実を聴いて以来、ずっと気に病み続けていた。千鶴に恨まれる可能性を思案してきた。
その苦しみから解放されたことに喜び、また決意を胸に秘めていた。


「守らなくちゃ」


呟いた声が響く。千鶴を守ろうと決意を新たにした。鬼がどれほどのものか、正直想像も出来ない。風間は甚大な力を持っているのだろう。沖田を打ち負かすほどの実力を持っているのだ、もしかしたら何人がかりで挑んでも危ういかも知れない。
それでも千鶴が望まぬ限り、手には渡すまいと誓う。それが償いであり、平助の願いを受け継いだ結果であり、また家茂の意思を尊重したことだった。何よりそうすることを自身が望んだ。


「綾ちゃん」


後ろから声を掛けられ、ゆっくりと振り返る。いつの間にか部屋に沖田が入ってきていた。白の寝巻に裸足と、随分緩んだ格好をしている。寒いはずなのに彼の頬が火照っているのは熱のせいもあるのだろうと、綾は表情を暗くした。


未だに沖田の病状がどうなのか、病名が何なのか知らなかった。訊いてものらりくらりと交わされ、いつしか訊くことすら恐ろしくなっていた。それでも沖田の病は日に日に重くなっている。本人はいつも通り振舞っているが、顔色の悪さだけは隠しきれなかった。


沖田はおもむろに綾の隣に腰かけると、静かに見据える。翡翠色の瞳が行燈の光でゆらゆら揺れていた。


「大丈夫?」
「…え?」
「大丈夫かなって思って」


目を見開いた綾に笑みを落として、沖田は手を伸ばす。そのまま彼は頭を撫でる。武骨な指先が髪を梳いてくすぐったい。思わず目を細めた綾を、沖田は優しく見つめた。


「色んなことがあって疲れただろうから。君は直ぐに意地を張って無理をするから心配だよ」
「…無理なんてしていませんよ」
「ほら、またすぐそうして強がる」


緩やかに笑むと、沖田は呆れたように息を吐いた。


「誰にでも弱さを見せることは感心しないけど、たまにはいいんだよ。全てを内に秘める必要はないし、壊れるまで頑張ることもない」
「沖田さん…」
「君は平助や一くんと親しかったんだから、辛くて当たり前だよ。明里さんのことにしても、君は仲が良かったよね。千鶴ちゃんのこともずっと悩んでいたんだから」


この人は自分を弱くする。綾はそう思いながら俯いた。どんなに強がっても見抜いて言葉を投げつける。
いつからこうして弱さを見せるようになったのだろう。そのようなことばかりを考えて、瞼の奥が熱いことや、喉が痛いことを無視した。視界がぼやけて涙が零れ落ちたことに気づかないふりをした。


次から次へと落ちてゆく綾の涙を、沖田は指先で拭っていく。浮かべた眼差しは慈しみが籠っていた。
沖田は声も漏らさず静かに泣く彼女の傍で、ずっと優しく微笑んでいた。







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