五月雨 | ナノ









幹部と綾、そして千鶴で囲んだ夕食は寂しいものだった。特に平助とおかずの取り合いをしていた永倉は、肩を怒らせている。こんなに静かな夕食は初めてで、誰もの箸が進まなかった。
綾も例外ではなく、焼き魚に何度も箸をつけては止めていた。口元まで運ぶが食べる気がしなかった。具合が悪いと沖田は部屋に籠っているので、実質三人も抜けてしまったことになる。斎藤や沖田は騒ぐ方ではないが、それでもいないとなると物寂しいものだった。


気まずい空気を思いがけず破ったのは島田だった。来客の報せを運んできたのだ。千が千鶴を訪ねてきたのだという。しかも幹部の面々にも同席して欲しいとの由だった。驚く幹部を尻目に綾は思い返す。そういえば少し前に千が近藤や土方に話をしたいと言ってきたこと。何の話か解らぬが深刻そうであった。頻繁に会っている訳ではないが、千も既に綾の大事な友人だ。軽々しいところがないことを良く知っているので、綾の顔は自然と強張った。


客間に入れば千と君菊が既に坐していた。沖田も呼ばれ、幹部が勢ぞろいする。綾は千鶴の横に座った。硬い千の横顔に不安と緊張を覚える。正体の解らない予感を感じていた。


重々しい口調で語り始めた千の話は衝撃的なものだった。鬼のことを持ちだしたのだ。訝しげな表情を浮かべる面々の中で、綾だけは驚愕を浮かべる。以前、家茂から聞いた話を思い出した。鬼という特殊な種族、彼らに縋る時の権力者、そして徳川の罪。思わず千鶴を見遣れば、千鶴はまだ話のツボを掴めていないのか眉間に皺を寄せている。これからのことを考え、自然と気持ちは沈んだ。


「こちらにおわす千姫様は、古き鬼、鈴鹿御前の末裔に当たられる方なのです」


君菊の艶っぽい声が部屋に響く。鬼、と聴いて身構えた永倉達を尻目に、千は堂々と前を向いていた。
二人の話を聞いて綾は彼女たちが、家茂の言った鬼でいう宮家の姫であるのだろうと思った。


鬼は相対的に女の数が少なく、更に純血となると限られる。故に血筋の良い女鬼は狙われやすい。
風間は西国では一番の家柄で、対し雪村は東国一の家柄。そして千鶴はそこの娘である。


淡々と語られる千の話は家茂の仮説を裏付ける。平和を愛し最後まで抗った雪村家は“ある”武家の家によって滅ぼされてしまったこと。雪村の当主と奥方、その他一族は滅亡に追い込まれたが、生き残ったのが千鶴であること。
真実が明かされてゆくたびに綾の表情が曇る。千鶴の顔が見れなかった。自分は敵の家の娘なのだ。千鶴の反応が怖くて堪らなかった。


「では、私は鬼なの…?」


揺れる声音に、千はそうだと頷く。突然の事実に千鶴は戸惑っている様子だった。しかし自らの身体のことで思い当たる節や、また風間に言われたことも心のどこかに引っかかっていたのだろう、傍目から見ても事実を受け入れていた。
土方達も驚きはしたものの、風間の力や羅刹のこともあって嘘だと叫ぶようなことはなかった。皆、どこまでも真剣な顔をして千の話に耳を傾けている。


一通り話し終えると、千はゆっくり振り返る。後方に座っていた千鶴と、隣の綾を見遣った。


「もうひとつお話したいことがあります。雪之丞さんに」
「は?綾?」


永倉が盛大に眉を顰める。話の流れに現時点で綾は全く関わりない。意図を読み取れず皆困惑を浮かべている。
綾は拳を握りしめると静かに千を見つめ返した。その大きな瞳に予感する。千もまた、全てを知っているのだろう。


「どうしたの、お千」
「あなたに黙っていたことがあるの。私、あなたのことを知っていた」
「俺を?」
「ええ。だから雪之丞さん、いえ、…蓮尚院綾姫様にお話が」


さっと衣擦れの音が響く。永倉や原田、そして土方が膝立ちになっていた。千鶴の話はまだ鬼の内々の事実だから良い。問題は、千が徳川の最高機密を知っていることだ。
咄嗟に刀の柄に手を置いて構えた彼らに目もくれず、千は静かに綾を見据えている。綾は小さく笑みを落とした。


「いつからご存じでした?」
「出会った時は本当に知らなかったの。けれど、そうね、正確には家茂様にお会いした時にお教えいただいたわ」
「そうでしたか」


家茂の名が出て驚いて、皆は綾達を凝視した。沢山の視線を感じつつ綾は瞼を閉じた。僅かに唇が震えている。真実を認め語ることが恐ろしかった。
なけなしの勇気を振り絞り、やがて千を見据える。真っ直ぐな瞳に迷いはない。揺らぎ知らずの強い眼差しだった。


「その節は弟がお世話になりました」


そう言って頭を下げた綾を見て、千は微笑む。確信を持ったように深く頷いた。


「弟君にお話を詳しく伺いました。雪村の件は鬼の間でも騒がれたことでしたが、情報を持つ者がおらぬ故、何分不確かなことが多くて。弟君は内部の人間しか知りえぬ貴重なお話を聞かせて下さいました」
「そう、でしたか…」
「とても誠実な方でしたね。真っ直ぐで強い瞳をお持ちで。…惜しい方を亡くしました」


千の言葉に綾は小さく笑んだ。家茂のことを落ち着いて聴くことが出来るようになったのは、つい最近だ。
どこへ行っても褒められる自慢の彼を思い出し、ありがとうございますと呟く。


「私も千姫様のことは聞き及んでおります。古き鬼の格式ある家柄の方であるということも、快活で頭の良い方であるとも。まさかお千がそうとは思いませんでしたが」
「そうですね。私も雪之丞さんがそうとは思いませんでしたよ。…文を見るまでは」
「文?」


顔を顰めた綾に、千は悪戯っぽく笑った。


「和宮様から頂きました。新選組に自分の義姉に当たる方がいると。あなたが女人と気付いたときから、そうではないかと疑っておりました」


家茂の正室である和宮は孝明天皇の妹であり、鬼の姫の幼馴染である。そう家茂が言っていたのを思い出し、綾はようやく納得した。和宮がどのような気持ちで明かしたのかは解らないが、少なくとも悪意はないのだろうことも。


「そうでしたか。では、改めてご挨拶を」


一歩後ろに下がると、綾は丁寧に頭を下げる。動作に敬う気持ちを籠めた。


「私が紀州徳川の血筋、松平容保の養女、蓮尚院でございます」
「鈴鹿御前の末裔、八瀬の千です」


挨拶しあう二人を、土方達は黙って見守る。これだけのために身分を明かしたのではないと、薄々勘付いていた。
綾は顔を上げると唇を引き結ぶ。そのまま千鶴にゆっくり身体を向けた。驚く千鶴を目の前にして、心臓の鼓動は早鐘を打つ。
受け入れられるなどと思ってはいけない。期待はしてはいけないと自分に言い聞かせる。それだけのことをしているのだから。


「千鶴に謝らなくてはならないことがあります」
「え…、私、ですか?」
「はい。これは近藤雪之丞からでも、あなたの友人の“綾”からでもなく。徳川の血を引く者として」


震える指先を叱りつけ、綾は深く一礼する。突然頭を下げられた千鶴は驚愕のあまり言葉を失った。綾、と名前を呼んだのは原田だ。千と君菊以外の誰もが驚いた。


「先ほどお千の話の中で、千鶴の実家、雪村家がどこぞの武家に滅ぼされたという話をしました。その武家、一族滅亡に追い込んだ家は…。徳川宗家なのです」


誰もが言葉を失くす。武家の棟梁であり最高権力者である徳川が、鬼にした仕打ちを知る。あまりに残酷で非人道的な仕打ちを。
綾は畳を凝視したまま言葉を繋ぐ。しっかりせねばと思うのに、どうしても声が震えた。


「謝っても許して貰えるなんて思わない。本当に、本当に人としてあるまじき事をしました。武家どころか人の恥です。一方的に武力で捩じ伏せるなんてあってはならなかった」


本当に、と言葉を切る。感情が高ぶって仕方ない。それでも綾は声を繋いだ。


「本当に申し訳ございません。私に出来る報いは全て行うつもりです。それは弟、家茂公の願いでもありました。本当にごめんなさい」


口を閉じると同時に緊迫した静寂が訪れる。誰も口を開かなかった。硬直したまま綾は頭を下げ続ける。敵の娘を見つめる千鶴はどのような顔をしているのだろうか。それは考えたくもない想像だった。





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