五月雨 | ナノ








綾は空になった平助の部屋をぼんやりと眺めた。
物が乱雑に置かれて汚い部屋だった。何度か片づけを手伝わされたことがある。そのあとは決まって一緒に酒を呑んだ。
その部屋が、がらんとして静まり返っていた。まるで何事もなかったかのように、住民などいなかったように。


日差しが差し込む部屋の中は明るい。おもむろに中に入って座り込む。寝坊をする平助をよく起こしにきたことを思い出した。


「綾さん?」


背後から聴こえた甲高い声音に振り返る。雑巾を握り締めた千鶴が立っていた。
千鶴は綾がいたことに驚いた様子だったが、どこか安心したような表情を浮かべる。


「ここに、いらしたんですね」
「…何だか懐かしくなって。千鶴は掃除?」
「はい。土方さんが御陵衛士で抜けた人の部屋を、綺麗にするようにって」
「そっか」


きっとこの部屋もまた、他の誰かの部屋になるのだろう。寂しい気持ちを抱えて綾は見渡した。何もない部屋なのに、誰か他の人の物になるかと思えば複雑だった。
静かに千鶴も腰を下ろす。随分掃除してまわっているのか、指先が赤く悴んでいた。


「平助くんと話したんです」


狭い部屋に千鶴の声が響く。突如話し始めた彼女を、綾は静かに見遣った。
千鶴は俯いて拳を握りしめる。その手のひらは小刻みに震えていた。


「平助くん、譲れないものがあるから抜けるんだって言ってました。別に誰かを嫌いになったとかじゃなくて、ただ、自分として譲れないからって。だから裏切り者になるけど、それも仕方ないって」
「…そんなことを」
「私、それは裏切り者ではないよって言いました。そしたら嬉しそうに笑ってくれたんです。それが嬉しかった」


千鶴の声は震えている。揺れる肩をそのままに、彼女は声を絞り出した。


「迷惑だろうけど、一つだけ言わせてほしいって、言われました」
「…何を言われたの?」
「私のことが、雪村千鶴のことが好きだ、って」


千鶴の瞳から涙が零れ落ちて、膝の上の拳を濡らした。綾は目を大きく見開く。まさか平助が気持ちを伝えるとは思ってもみなかった。
それだけ覚悟をしたのだ。新選組を脱することは、千鶴との離別をも意味する。今生の別れのつもりできっと告げたのだ。
千鶴の唇が震える。涙は後から後から降り注いで、やむ気配がない。


「迷惑だなんてそんなこと、思うはずがないじゃないですか。平助くんは凄く優しくしてくれた。最初から親切で、楽しい話をいっぱいしてくれた。私を笑わせてくれたんです」
「千鶴…」
「剣術だって教えてくれて、いっぱいいっぱい温かい気持ちをくれて。陽だまりみたいな人だなって、ずっと思ってました」


不意に綾は一つの可能性に気づく。半年前だったら当たってほしくて、今だったら外れて欲しい予感。千鶴の涙を茫然と眺めながら、気づいてしまった。


「千鶴」


呼びかけると千鶴が顔を上げる。涙に濡れた大きな瞳は、日差しのせいかきらきら光っていた。


「もしかして、千鶴も平助のこと…」
「好き、です」


嗚咽混じりの声に、嘘は見いだせない。
綾は何と言えばいいのか解らなかった。皮肉な話だ。別れて初めて互いの気持ちに気づくなんて、残酷な話だった。
堪らなくなって千鶴を強く抱きしめる。綾の肩に顔を押し付け、千鶴はより一層強く泣いた。


「どうして、こんな…っ」
「…平助に想いは?」
「伝えませんでした。伝えられる訳がなかった。今から志のために道行く人に、私の想いなんて」


そうして自分の気持ちを抑え込んだのだという。平助のためを想って、平助への気持ちを仕舞いこんだ。平助が迷わないように一言も言わずに。
けれどどこかで平助も気づいていただろうと、綾は思った。それでもなお、平助は志を選んだのだろう。千鶴を選ぶことも出来たがしなかったのは、千鶴がそれを望まないからだ。千鶴は平助を縛り付けることを良しとしない。そういう子だからこそ、平助は千鶴を好きになったのだろう。


なんて不器用な人たちだと、綾は思った。恋の結末がこうなることを、誰も望まなかったのに。


決壊したように泣き続ける千鶴の背を撫でながら、綾は窓を見た。桜吹雪が風に舞う。それはまるで、涙のようだった。





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