五月雨 | ナノ









屯所中、伊東派の脱退で噂は持ち切りだった。
険しい表情をした土方とは対照的に、伊東の顔は底抜けに明るい。隊士たちにどちらか選ぶように宣告され、選んだ場合のことも告げられた。


他愛のない世間話すら聞きたくなくて、綾は人があまりいないところを探して彷徨った。伊東派というより平助と斎藤についての話を聞きたくなかった。二人は近藤派と見なされていたので、隊士たちの間で特に話題に上ったのだ。
どちらの離隊も受け入れがたいが、昼過ぎになって綾はようやく落ち着きを取り戻した。朝に斎藤と話して思ったのだ。二人を信じてみようと、覚悟した。


裏庭に辿りつくと、当たり前だが既に千鶴の姿はなかった。どうやら平助と話した後、部屋に籠ってしまったらしい。町民出身の彼女には随分衝撃的だったのだろうと推測する。綾ですら未だに受け入れ難いのに、一般の女性として育った千鶴には思想の違いで簡単に脱してしまう男たちが理解出来ないのだろう。


綾は桜の木を見上げる。初めて平助と会った時のことを思い返した。沖田に辛辣な言葉を吐かれ木刀で叩きのめされた後に、手当をしてくれたこと。まだ近藤派の皆が冷たい態度を取っていた時分に、誰よりも優しくしてくれたこと。明るく励ましてくれたこと。同じ隊に所属して背中を預け合って闘ったこと。酒を酌み交わして笑いあったこと。不安を吐露し合ったこと。


「綾」


背後に気配を感じていたが、綾はあえて振り返らなかった。そして話しかけた平助自身も、彼女がそうすることを想定していたのか驚かなかった。


「ごめんな」
「…噂は本当なの?」
「ああ」
「伊東さんについて行くんだね」
「…ああ」


ようやく振り返った綾の瞳に、平助の真っ直ぐな眼差しが映る。平助のその目には迷いはなかった。そこには覚悟を決めたものの証があった。
平助は一歩前に踏み出すと綾の間合いに入った。


「なぁ、お前はどうするんだ。このまま残るのか」
「なんで?」
「お前、前に言ったよな。実家が、徳川が嫌いだって。新選組に残るってことは、完全に徳川方につくということだぞ。な、一緒に来ないか」


冗談を言っている様子はなかった。元よりこのような場面での冗談はきつい。
綾はやや表情を和らげた。


「御陵衛士に入れって?」
「伊東さんはお前のこと気に入ってるし、正直俺も来てくれたら嬉しい」


確かに伊東は綾をしきりに気にかけていた。学があって剣も遣える彼女を気に入っていたようだ。御陵衛士に入りたいといえば手放しで歓迎されるだろうことは、想像に難くない。親友である平助と、師範の斎藤が伊東派につくことを考えると、それも魅力だ。
されど綾はゆっくりと首を横に振った。


「…ごめん、それでも私は残るよ」
「実家のこと、受け入れたのか?」


綾が徳川を恨んでいることを知っている平助は、気遣わしげに尋ねる。
藤堂家に対し同じような想いを抱いている彼だからこそ、綾の心情を慮った。
その優しさを嬉しく思いつつ、綾は微笑んだ。


「受け入れたかどうかでいうと、多分違う。だけど私は尚更離れる訳にはいかない。徳川を守ることがあの子の最期の願いだったから」
「…遺言、だったんだな」
「うん。それにそもそも、私は近藤先生の志を叶える為にいるんだから。新選組ではないと意味がないんだよ」
「そうだな。それでこそ綾だな」


仕方ないな。とでもいうように平助は笑う。全てを受け入れた綾の眼差しはどこまでも強い。かつて、流石は家茂の姉と評された瞳がそこにはあった。


温かな風が吹いて二人の頬を撫でていく。平助の結った髪の先ははらはらと靡いた。
散ってゆく桜の花吹雪に想いを寄せる。
綾の脳裏には色んな思い出が浮かんでは消えてゆく。春先の淡雪のように儚くも優しい記憶だった。


「ねぇ、平助」


呼びかけた声音が自分で思ったよりも柔らかかったことに綾は安堵した。
恨みつらみではなく、優しい気持ちだけが孕んでいる。


「どうしても、抜けないといけないの?どうしても伊東派ではないと駄目なの?」


静かに尋ねた。責め口調ではなく、親が子に理由を問うような言い方だった。
平助は目を細めると、一度だけ深く頷く。仕草に一切の迷いはなかった。


「悪いな。それが俺だから」
「尊王攘夷を守るため?」
「正直、お前を嫌いになったとか、近藤さん達が嫌になったとかじゃない。むしろ今でも仲間だと思ってる。それでも俺も男だからさ、志だけは守り通したい」


真っ直ぐな瞳に揺れるところはない。ぶれない心がそこにある。
決定打だと綾は思った。これで道が別れてしまった。互いに譲れないからこそ、離れるより他はない。
志を曲げることなど、出来るはずもないのだから。


「決めたんだね」
「ああ」
「…そっか」


酒を呑み交わした夜も、寒いと愚痴を言いながら巡察に出たことも、暑い日差しの下走り回ったことも、秘密を打ち明けた時のことも全て脳裏にある。それなのに、その全てが今では遠いと綾は思った。
一緒に過ごしたのは三年と少し。濃密で大切な時間だった。
それは平助も同じだったのだろう。彼は静かに微笑んだ。


「もう二度と、お前と会わないことを祈るよ」
「それは私も、祈ってる」


残酷な別れを告げあう。互いに解っていた。道を違えた二人が次に会う時は敵同士。互いを斬り合う時なのだと。
そうならぬことを祈るより他はなかった。誰よりも信頼し合った親友だからこそ、自らの手で斬らなくても良い運命を願った。


桜の木を見上げた平助は、一瞬踵を返そうと足を動かした。されど数歩歩いたところで立ち止まる。彼は振り返りもせずに、前を向いたままだった。


「なぁ、綾」
「うん」


綾もその場から動かずに返事をする。平助の背は小刻みに震えていた。


「千鶴を…、千鶴を頼む」


平助の声は揺れた。綾は平助を静かに見遣る。唯一の心残りだと、その声は語っていた。


「もう俺は守ってやれねぇからさ。こんなこと俺が頼む義理じゃないけど、でも、綾が守ってやってほしい」


心の底からの願いだった。声には悔恨と縋るような願いが籠められている。
平助らしさを見出して綾は微笑む。彼の親友として、最後の務めを遂げようとしていた。


「解ってる。言われなくても、千鶴は守るよ」


しっかりした綾の声を聴いて、平助は不意に空を見上げる。鼻を啜る音が響くが、綾はあえて聴こえないふりをした。
やがて平助は再び前を向く。


「恩にきる」


その声に綾は精一杯頷いた。彼女の喉も熱を帯びて言うことを利かなくなっていた。


「平助」
「おう」
「元気で」
「ありがとう。お前もな」
「うん」


絞り出した声で互いに別れを告げ、平助は歩き出した。迷いのない足取りだった。
その後ろ姿を見送りながら綾は拳を握りしめる。親友の門出を笑顔で見送った。


三月二十日。伊東派以下十三名は御陵衛士として新選組を脱した。
その中には綾の親友である藤堂平助、師範の斎藤一も含まれていた。





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