五月雨 | ナノ









翌朝、千鶴と共に井上に会った綾は驚愕した。
伊東派が新選組を離脱することになったのだと、伝えられたからである。


あまりのことに言葉を失った綾の代わりに、千鶴が矢継ぎ早に質問をした。
誰か抜けるのか、と尋ねた彼女に、井上は顔を顰めた。気遣わしげに綾を見て、それから口を開く。


「平助と斎藤くんも、伊東さんに付いていくそうだよ」
「平助と…、斎藤さん、ですか」


うわ言のように綾は呟く。直ぐに言葉が理解出来なかった。離隊自体急な話だ。事件が起こったのは昨夜の、それも真夜中だ。元々離脱を意図していなければ為し得ないと誰から見ても明らかだった。
伊東派は今年に入ってますます不穏な動きをしていたことを、綾も聞きかじって知っていた。しかしまさか、こうも早くその日が来てしまうとは思わなかったのだ。


しかも離隊する面子の中に平助はまだしも、斎藤までいることが衝撃だった。平助単独でも信じられないのだ。離隊するということは結局、新選組を捨てることになる。平助は伊東と行動することが多かったとはいえ、最終的にこちらを選ぶだろうと思っていた。綾は平助を信じていた。
斎藤にしては予想外過ぎて言葉に出来ない。誰よりも土方の忠実な部下だった、誠実を絵に描いたような斎藤が。二人とも昨晩、事が起こるまで一緒に酒を呑み交わしていたというのに。


真っ青になった千鶴と、目を見開いたまま硬直した綾を、井上は心配そうに見つめる。いつの間にか井戸に到着していた。井戸には先客がいた。原田、永倉、沖田だった。
永倉は怒りを抑えきれず、井戸の縁を力任せに叩く。握り締めた拳が小刻みに揺れていた。


「平助のヤツ!」


同じように口には出さないが原田の怒りも同等らしく、目を吊り上げている。沖田は相変わらず飄々としているが、どこか硬い。悔しさと失望が蔓延していた。誰もが裏切られた思いで一杯だった。
勢い余って永倉は肩を怒らせたまま井戸を去る。遣り場のない怒りに身を任せていた。
その背を見送りながら綾は、虚しさを感じる。平助とは深い仲のつもりだった。誰よりも仲の良い、何でも話せる親友だと思っていた。それが今、こうして裏切られた。


新選組を離脱した伊東達はそのまま御陵衛士という役を拝命するのだという。孝明天皇の御陵を守るという名目だ。尊王攘夷を掲げる伊東らしい役職だった。
土方は伊東に脱退の条件を突き付けた。御陵衛士と新選組隊士の交友を禁ずる。すなわち町で出会ったとしても互いに言葉どころか目線すら交わしてはならない。盟約に伊東も直ぐ同意した。平和的とは名ばかりの、宣戦布告だった。


「私…、平助くんと話してきます」


思いつめた表情で千鶴が呟く。綾はようやく我に返り、千鶴の背を軽く叩いた。


「多分、裏庭」
「え?」
「平助は落ち込むと裏庭。早く行ってあげて」


綾が淡く微笑むと、千鶴は目を見開く。そして大きく頷き駆け出して行った。
その背が見えなくなり、綾は目を伏せる。いつの間にか原田と井上もいなくなっていた。
静まり返った辺りに鳥の囀りが響く。妙に楽しそうな鳴き声に、何故だか余計気分が沈んだ。


「綾ちゃん」


今まで黙っていた沖田がようやく口を開く。何事かと顔を上げた彼女に、沖田は普段と変わらぬ様子で笑った。


「君は話さなくて良いの?」
「話す?」
「一くんと。師弟なんでしょ」


沖田の視線がふと外れる。それを追った綾は目を丸くした。視線の先にいたのは斎藤だった。斎藤はいつも通り、漆黒の着物に身を包み静かに佇んでいた。まるで騒動の蚊帳の外にいるかのような冷静さだった。


「斎藤、さん」


綾が呼びかけると、斎藤は顔を上げる。綾か、と呟いた声音すらいつも通りで、先ほどまでの噂話が出鱈目だったのではないかと思わせる。
緩く笑んだ沖田は軽く綾の背を押し、自分は踵を返して建物の方へ行ってしまった。残された綾はただ茫然と斎藤を見つめる。不意に斎藤は近寄った。


「話を聞いたのか」


尋ねられて思わず俯く。返事をしないことが肯定の証だった。物を言わない彼女に斎藤は困ったように笑むと、手を伸ばす。武骨な手のひらが頭を撫でた。
斎藤にこのようなことをされるのは初めてで戸惑う。顔を上げた綾の瞳には、真っ直ぐな斎藤の眼差しが映った。


「副長と新選組を…、頼む」
「斎藤、さん?」


驚く綾の問いかけに返事をせず、斎藤は踵を返した。柔らかく笑んだ残像が瞼に残る。離脱する癖に頼むだなんてと、綾は唇を噛み締める。なんとも勝手な人だ。だがなぜか、裏切られたという思いは消え去っていた。


桜の花びらが舞い散る。風に乗ってひらひら流れ、頬を撫でて遠くへいってしまった。





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