五月雨 | ナノ









その日の夜。
夜の巡察から帰ってきた原田や、永倉、斎藤、平助を交え綾は酒を呑んでいた。
広間に灯った火が仄かに揺れる。久しぶりの面子に皆、高揚していた。


「そんでよ、土方さんったら自分が下戸なモンだからさ、あっさりと俺の酒取りあげやがってさぁ。あの人も薄情だよなァ」


音を立てて杯を置いた永倉の顔には随分赤みが差している。酔っているらしく、手元が覚束なかった。綾は原田と顔を見合わせ苦笑する。永倉の愚痴は軽く、親しいからこそ出来る愚痴だった。


「それは新八、お前が悪いだろう。副長は正しい」


案の定、土方の側近である斎藤が嗜める。するとそれに、そうだそうだ!と平助も声を被せた。


「新八っつあんの自業自得だって!だいたい同じことを何度繰り返せば気が済むんだよ」
「学習能力が無さすぎるな」
「お酒をもう少し控えると良いかも知れませんね」
「ははは!綾、そりゃ無理な話だ。酒だけが楽しみで生きてるようなヤツから酒を取り上げるなんて、お前も酷過ぎる」


思い思いに好き勝手言われ、新八は顔を真っ赤にした。お前らなぁ、と怒鳴りかけたその時だった。
一番に勘付いた斎藤は顔を強張らせ、皆を静止する。何事かと顔を顰めた面々は、直ぐに気付いた。悲鳴のようなものが聴こえたのだ。


「千鶴だ!」


そう言うが早いか、平助が刀を掴む。綾も悲鳴の主は千鶴だろうと思った。甲高い声音はまさしく女のものだった。西本願寺に女人は二人。片方である綾でないとすれば、消去法で答えは見える。


刀を素早く腰に差すと綾達は駆け出した。酔いはすっかり醒めてしまった。広間から千鶴の自室まで距離はない。板を踏みならして駆けつけると、三人の影を見つけた。部屋の主である千鶴、既に駆けつけていた土方、そして白髪を振り乱した隊士。
部屋中に甲高く不快な笑い声が響く。土方は千鶴を背に庇い、隊士を鋭く睨みつけていた。


「羅刹か」


チッと軽く舌打ちすると原田が槍を構える。出入り口は永倉や平助と共に固めた。いつの間にか斎藤と沖田も抜刀していた。取り囲まれた羅刹は正気を失っているのか、喜色を浮かべている。普通の精神をしていればこんな大勢、しかも剣客達に囲まれて笑ってなどいられない。狂っている、と綾はひとりごちる。正気の沙汰ではない。


恐怖に縁取られた千鶴を羅刹は真っ直ぐ見据えている。血を、血をとうわ言のように繰り返す。周囲で皆、刀を構えたまま一歩一歩羅刹に近づいた。痺れを切らしたのは羅刹の方だった。大きく刀を振りかざして千鶴に襲いかかる。それを土方が袈裟がけで斬りつけ、原田が心臓を貫いた。鋭い悲鳴を上げ、羅刹は廊下に倒れ込む。バタン、という大きな音の後、やがて静寂が戻った。


「なんで羅刹が」


誰ともなく声が上がる。羅刹は現在、羅刹隊として平隊士や伊東派の目につかないところに隔離してあった。真夜中に幹部棟の中でも最奥にある千鶴の部屋にやってくるなど、ありえないことだ。千鶴は恐ろしいのかまだあからさまに震えていた。右腕を抑え、指の隙間から血が滴り落ちている。思わず綾が声をかけようとした時だった。


「すみません。私の監督不行き届きです」


暗闇から姿を現したのは山南だった。顔を顰め、心底申し訳なさそうな顔をしている。絶命した羅刹に目を向けると、彼は一瞬苦悶の表情を浮かべた。情に篤い男なので惨劇に心を痛めたようだった。


「雪村くん、大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」


少し落ち着いたらしく、千鶴の声音はしっかりしている。それでも山南は顔を顰めた。


「…大丈夫じゃないでしょう、こんなに血を」


千鶴に近寄りそのまま彼女の腕に触れる。指先に大量の血が付着した。痛ましいといった表情をした彼だったが、ふと硬直する。途端に獣のような唸り声を上げながら頭を抱えた。その異常さに皆は瞠目する。土方が咄嗟に千鶴を引き寄せた。
みるみるうちに山南の髪は真っ白に染まる。瞳が血より濃い赤に光った。


「血です、血が、血が欲しい」


正気を失った山南は緩々と千鶴に手を伸ばす。土方は口を固く引き結んで千鶴を背後に回した。皆は再び素早く刀を構える。先ほどと同じように刃先を山南に向けた。
綾も抜刀するが、その刃先は定まらなかった。細やかに揺れている。山南が血に当てられ変貌してしまったことに、動揺を隠しきれなかった。その上山南を斬らねばならないかも知れないと思えば、動揺は増すばかりだ。


「山南さん!」


平助が正気を戻せとでもいうように怒鳴るが、彼の耳には届かない。熱に浮かされたようにただ血を求める。震える指先を千鶴に向ける彼の瞳に狂気を見つけ、綾は唇を噛み締めた。こうなってしまった羅刹を何名を見ている。そして彼らの末路も。
悲痛な顔をした明里を思い出し、手元が震える。それでも殺さねばならないだろう。刀を強く握り締める。狂ってしまった羅刹に対する対処法を、一つしか知らなかった。


しかし刀の出番はなかった。手についた千鶴の血を舐めた山南は崩れ落ちる。髪が元の色に戻り、意識を取り戻した。自分が血を求め狂う羅刹と化した事実を知ると、彼は茫然と手のひらを眺めていた。自分がそうなってしまったことが、あまりに衝撃だったようだ。


「まァ、一体何の騒ぎなの!」


山南に掛ける言葉がなく静まり返った空間に、場違いな声が響く。驚いて振り返った綾の背後にいつの間にか伊東がいた。静止しようとした時には遅かった。彼は部屋を覗きこみ、驚愕を顔に走らせた。


「ま、ま、ま、山南さん…!し、死んだはずじゃ…!」


金切り声が響く。伊東からしてみれば幽霊を見たのと同等なのだから当然の反応だが、些か間が悪かった。
土方の表情が険しくなる。一番見られたくない人に見られてしまった。近藤が素早く彼の背を押し追い立てる。悲鳴を上げながら消えていく後ろ姿に、沖田は皮肉っぽく息を吐いて笑った。


「どうします?見られちゃいましたよ。斬っちゃいますか?」


その言葉は土方の眉間の皺をますます濃くする。
羅刹の遺体を眺めながら綾は、どうなってしまうのだろうと眉尻を下げた。


「千鶴、大丈夫か?」


平助が駆け寄ると、千鶴は軽く頷いた。腕を抑える指先が小刻みに震えている。唇も色を失っていた。


「今日は俺の部屋で休め。腕は山崎に手当してもらえ」


土方が言えば、平助も大きく首を縦に振って同意する。しかし千鶴はパッと顔を上げ、目を大きく見開いた。


「いえ、いいです。自分で手当てします!」
「だがお前、」
「大したことありませんので!」


普段強い物言いをしない千鶴の言動に、冷静な土方すら言葉を失う。ふと綾は千鶴が鬼であることを思い出した。鬼は怪我の完治が異様に早い。それを知られまいとしているのだろうと思った。


「土方さん、千鶴は私の部屋に連れ帰ります」
「は?」


突然口を挟んだ綾に、土方は訝しげな目を向ける。千鶴も目を丸くしたまま凝視した。
綾は千鶴に軽く微笑み、それから再び土方を見据えた。


「こんなことがあったのです。どれほど恐ろしい想いをしたでしょうか。こういう時は誰かが傍にいると安心するものです。そうなるには同性である私が一番適任ではありませんか?」
「綾…」
「怪我の手当ても私がします。仕方ないこととはいっても、やはり男性に手当てされるのは気恥ずかしいでしょうから」


察して下さい、と綾が言えば、土方は僅かに顔を顰める。それでも彼はやがて、好きにしろとため息と共に言い放った。


急展開に目を白黒させる千鶴を連れ、綾は自室に戻った。千鶴はどうすればよいのか解らないといった風に視線を彷徨わせる。彼女はまさか綾が千鶴の秘密を知ろうとは思ってもみなかった。
障子を閉めると綾は振り返り、千鶴に笑ってみせた。


「そういう訳で、今日は二人で休もう。もう一式布団取ってくるよ。千鶴は押し入れにあるやつ使って先に休んでね」
「あ、あの、綾さん、」
「包帯は文机の下の木箱に入ってるから。じゃあ、おやすみ」


一気に捲し立てると、綾は木箱を指差す。千鶴は瞠目するが、やがて笑顔を浮かべた。


「解りました。ありがとうございます」
「うん」


頷きを返した綾はそのまま部屋を出る。襖を閉めると同時に空を見上げた。
満天の星空に月が輝いていた。





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