十日ぶりに屯所に戻ると、綾は縁側に千鶴の姿を見つけた。 千鶴は竹刀を片手に辺りを見渡している。誰かを探しているようだった。 不意に綾と視線が合えば、千鶴は驚きで目を見開く。 そんな彼女に笑みを落として綾は歩み寄った。
「久しぶりだね」 「綾さん…!戻っていらっしゃったんですか」 「つい今ね。それよりも、誰かを探しているの?」
綾が尋ねると、千鶴は神妙に頷く。少しだけ表情を緩めて彼女は竹刀を見遣った。
「稽古をつけてもらおうと思って、平助くんを探しているんです。あの、平助くん見かけませんでしたか?」 「平助か。ごめん、本当に今戻ったから近藤先生と土方さんくらいにしか会っていなくて。左之さんや新八さんには訊いたの?」 「あ、そうですね。すみません。原田さんは巡察中、永倉さんは道場で隊士の皆さんの稽古をしていらっしゃるんです。だから多分ご存じないだろうと思って」
そう言って千鶴は眉を下げる。普段家事に追われて忙しい身なので、平助が見つからなくて残念なのだろう。 そして綾は千鶴とは違った意味で表情を暗くした。原田や永倉と共にいないということは、可能性としては一つしかなかった。永倉を探した際に道場を覗いただろうから、今道場にはいないはず。斎藤はまだ土方邸にいるし、沖田は寝ているはずだ。となれば。
その時人の気配を感じて綾は振り返った。境内の方から足音がいくつか聴こえてきた。千鶴も釣られてそちら側へ目を遣る。間を置いて現れたのは、伊東派の面々だった。
千鶴の表情が戸惑いを浮かべる。一団の中には平助がいた。 平助は篠原や服部と談笑している。こうした光景を見るのはそう珍しいことではなくなっていた。 先頭にいた伊東が真っ先に綾と千鶴に気づく。伊東は一瞬驚いたように目を見開くが、直ぐに緩い笑みを浮かべた。
「あら、雪之丞さん。お帰りになっていたのね」 「ご無沙汰しております、伊東参謀。ただ今戻りました」
一礼した綾に、伊東はゆっくりと頷いた。伊東の後ろで平助もじっと綾を見つめている。平助は罰の悪そうな顔をしていた。
「長州の偵察に行ったと訊いたけれど、どうだったのかしら。怪しい動きはあった?」 「はい。後ほど斎藤組長と共にご報告いたします。夕餉の後、お時間を下さい」 「解ったわ。それにしても十日も御苦労だったわね。雪之丞さんとお会い出来なくて寂しかったわ」
伊東は目を細めた。どうやら自分は気に入られているらしい。綾は微笑みながらも思案する。 最近では伊東は派閥を固めるのに執心している。認められるのは嬉しいことだが、派閥への勧誘ならば遠慮願いたい。それが素直な本心だった。
「伊東参謀、それよりも先ほど土方副長が探されていました。検問のことで何か会津から通達があった由です」 「あら、土方くんがね。そうなの、今から向かうわ。ありがとう」 「いえ」
優雅に笑うと伊東はそのまま土方の部屋の方へ向って歩き出す。伊東派の他の面々は部屋の方へ消えていった。残されたのは綾と千鶴、後は平助だった。 沈黙が場を包む。平助は困ったような顔をして頭を掻いた。
「お前、戻っていたんだな」
平助の言葉に綾は緩く微笑んだ。そうだよ、と言った彼女の声音は少し硬い。 明るく振舞おうとするが、失敗していた。平助と綾の間には僅かな、しかし確実な溝が出来始めていた。
「たった今。斎藤さんも直ぐに戻ってくるよ」 「そっか。…なぁ、綾」 「うん?」 「お前、本当はなんで十日も外に出ていたんだ?」
虚を突かれ綾は目を見開く。まさか平助がそんなことを尋ねるなど、思わなかった。驚いた綾に平助は確信を持ち、表情を強張らせた。
「そうだよな。一くんはともかく、綾を偵察に遣る訳がないもんな。お前を危険な目に遭わせる訳がない」 「…今回は女が必要だったから私が行っただけのことだよ。斎藤さんとは夫婦の役をした。そちらの方が油断を誘いやすいからね」 「はぁ?それにしたってお前じゃなくてもいいじゃねぇか。そもそも偵察なら監察もいるんだし」 「女性役は他の人には務まらないでしょ」 「普段の巡察ならともかく、危険な偵察にお前を遣るって信じられる訳ねぇだろ。な、本当は何だったんだ?」
平助は眉を顰めて尋ねる。綾は無表情のまま、静かに見つめ返した。 秘剣のことは誰にも言うことが出来なかった。平助も例外ではない。むしろ土方には平助への口外を禁ずとわざわざ釘を刺されたのだ。以前だったら言っても構わなかっただろう。だが少しでも疑いがあるうちは言うことは出来ない。平助に伊東派への離反の疑いがあるうちは尚更。
それに秘剣のことはそもそも誰にでも言いふらすようなことではなかった。だから綾は原田や永倉にも言う気はなかったし、秘剣の秘密を生涯守り通すことにしていた。それが斎藤への誠意だと思っていた。
平助は暫し綾を見ていたが、やがて溜息をついた。そこには明らかな失望があった。
「俺には言えねぇって訳か」
綾は口を閉ざし静かに平助を見つめる。平助のことを嫌いになった訳ではない。だが言うことなど出来ない。だから見つめることしか出来なかった。
「あ、あの!」
険悪な雰囲気を破ったのは千鶴だった。暗い空気を察したためか、わざとらしいほど明るい声音だった。
「平助くん、今から暇なら私の稽古に付き合ってくれないかな。最近していなかったから、腕が鈍った気がして」
千鶴の申し出に平助は目を見開く。そして彼は柔らかく微笑んだ。
「ああ、そうだな。そんじゃ俺も竹刀取ってくる。ここで待ってろ」 「うん!」
ひらひら手を振って駆け出した平助の背を、綾は複雑な気持ちで見送った。 本当に平助との距離が広がっている。どうしようもないとはいえ、もどかしかった。
「じゃあ、私もお暇するね」 「えっ?」
素っ頓狂な声を上げた千鶴に、綾は優しく微笑んだ。
「本当にまだ誰にも会っていないから、挨拶して回らないと。沖田さんの様子も気になるし」 「あ、ああ、そうですよね…」 「また夕餉の時にね」
納得いかなそうな千鶴にもう一度笑みを零し、綾は踵を返す。 その表情はいつになく沈んでいた。
続
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