五月雨 | ナノ










それから十日間、綾は秘剣の伝授に励んだ。
斎藤が全て籠めて作り上げた技とだけあって、習得には努力を要した。
今まで以上に厳しい鍛錬だった。なんせ互いに隊務を抜けている。十日の期日を守らねばならない。
朝から晩まで休みなく伝授に使った。布団に潜れば泥のように眠った。
伝授する斎藤も、される側の綾も真剣だった。全身全霊を籠めて臨んだ。


十日目の夕刻、綾は広間の中央に佇んだ。
彼女は微動だにしなかった。着物の端、髪の一本一本すら重力に従って垂れ下っている。
壁に背をつけ正座をした斎藤は、静かに彼女を見つめている。
確かな視線を感じながらも綾の心は凪いでいた。


時に優しく時に激しく。梅雨の頃の雨は気紛れだ。盆を返したように降るかと思えば、しとしと細やかに降る時もある。五月雨という技はそうした技だ。主の心すら鑑のように映していく。故に平常心を持てと斎藤は言った。


浅く呼吸を繰り返すと目を開く。感情の波は全て消す。景色と同化するように、そこに自然と混ざり込む。それこそが必殺の殺人剣、五月雨の心だった。


綾の手が伸びると同時に刀と鞘が擦れる細やかな音が響く。葵紋が鋳れられた刃は夕陽降り注ぐ部屋で、橙色に煌めく。空を斬ると刃先が天井に向かう。浅く身を屈めたまま、綾は動きを止めた。


再び静寂が訪れる。綾も斎藤も口を開かなかった。気まずい訳ではない、ただ静かな時が流れた。
先に沈黙を破ったのは斎藤だった。立ち上がると彼は足音を立てずに綾の目の前に立った。


「完璧だ」


斎藤はすっと目を細める。芯が通った声音だった。
真実のみを籠めて綾を見据えた瞳は、深い藍の美しい色をしていた。


「まさに、五月雨だった」


綾は何も言わず、斎藤を見つめ返す。額には汗が滲み、手のひらは今までにないほど傷だらけだった。刀を納めた指の先にはまだ真新しい傷がある。


斎藤は彼女の真横を通って掛け軸の前に腰かけた。掛け軸には“鹿島大明神”と書かれている。秘剣の伝授をするにあたって、近藤から借りてきた掛け軸だった。鹿島神宮は武芸の神を祭っている。多くの道場には鹿島にあやかった神棚や掛け軸が掛けられている。それに倣って斎藤は掛け軸を借りてきたのだった。


綾は斎藤の真向かいに座った。互いに刀を目の前に据えている。
障子越しに入る夕陽が斎藤の頬に影を落とす。斎藤は怯み知らずの眼差しで綾を見据えた。


「これで俺が教えられることは全てだ。もうあんたに教えるべきことは、何一つない」


鶯色の本は使いこまれて頁の裾が捲れている。紙の端は柔らかくなっていた。
本の一番後ろの頁を開き、綾に読むように促す。彼女が覗きこむと、秘剣の心得が書かれていた。


「この剣の秘密を外部に漏らす無かれ。これは俺とあんたの秘密だ。技を第三者に教えることを禁じる。存在すらも隠さねばならぬ。解っているな」
「はい、心得ています」


神妙な顔で頷いた綾を見遣り、斎藤は瞼を閉じた。


「安易にこの技を遣うことも禁ずる。ある程度の剣客ならばこの技が特殊ということに勘付くだろう。またいくら破られぬ刀といえど、多用するのは危険だ。勝負はいつでも時の運。強き技を持つという驕りが己を殺すやもしれぬ。心せよ」


どんなに強い剣客といえど、いつでも勝負の行方は解らない。油断大敵。斎藤は常に口を酸っぱくして隊士に言い聞かせていた。油断で遣られてしまうことほど見っとも無いことはない。
どんな相手でも全力で当たれ。己を過信するな。斎藤の教えを思い出しながら、綾は深く頷いた。


斎藤は瞼を開く。真っ直ぐ射抜くように綾を見据えた。


「最後に。この剣は己の信じるものの為に振え。決して己を安売りするな。お前は素晴らしい剣客だ。俺はお前を認めたからこそ、五月雨を授けた。それを忘れるな」
「誓います。私は私の信念の為だけに振います。刀は新選組のため、近藤先生のために。絶対に浅はかな利益のためには使いません」


凛とした声音で綾は言う。一点の曇りなき眼だった。
彼女の真意を確かめるようにじっと見ていた斎藤は、やがて静かに微笑んだ。瞳には優しさと信頼が宿っている。自分の愛弟子を見つめながら彼は何度も頷いた。


「その言葉を忘れるな」


肌寒いはずの真冬の一室には確かな熱が籠っていた。
言葉でどれだけ語られるよりも嬉しい信頼だと、綾は思った。
こんなにも信じてもらえるほどの何かを自分は斎藤に与えられていたのだろうか。そうは思うが一方で、信頼には信頼でしか返せないことも解っていた。
何があっても斎藤を信じていようと、綾は誓う。
授かった無敵剣を思い起こしながら、彼女もようやく微笑んだ。


一歩下がって深く一礼する。今までのことを思い出しながら感謝を籠めて深く礼をした。


「ありがとうございました」


綾の真摯な言葉に斎藤も笑む。それはどこまでも慈しみの籠った眼差しだった。





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