五月雨 | ナノ








睦月の湯殿は冷える。それも浴びるのが冷水となれば身も凍るようだった。
剣技の伝授とならば、一つの神事である。身を清めることがしきたりだった。
無論、正確には斎藤の伝授は正式な神事ではない。斎藤は道場主でも一つの剣術の主でもない。剣に秀でた人、というだけだ。
それでも綾は神聖な気持ちで臨むため、自ら水浴びを申し出た。


白い着物に身を包み、広間に戻る。背筋を伸ばして部屋に入ると、斎藤は静かに黙想していた。


「斎藤先生」


綾が呼びかければ、斎藤はゆっくり瞼を開く。深い色の瞳が見据えた。
彼は言葉を返す代わりに立ち上がる。手にしているのは鬼神丸国重だった。居合の伝授のため真剣で行うことになっている。鬼神丸国重と南紀重国の両刀は数刻前に既に清められていた。


二人並んで神棚に礼をした後、綾は壁側に寄って正座する。
斎藤は刀を片手に部屋の中央に立った。深呼吸を繰り返すと直立する。手は刀には微塵も触れていなかった。


それは一瞬だった。瞬きをしていなかったはずなのに、動きが全く見えなかった。
気がつけば斎藤は刀を抜いて、その刃先を天に向けていた。
舞のように優雅で、皐月の風のように静かだった。まさに五月雨だった。激しくも洗練された無駄一つない動き。目を逸らすのが勿体ないほど綺麗な動きだった。


「これが、五月雨」


綾の呟きが妙に大きく響いた。いつの間にか斎藤は刀を納めていた。
殺すための剣を追求したと言うが、それだけではないだろう。あくまで謙遜だ。
きっと生まれてこの方剣術を目にしたことがない者でも、斎藤の“五月雨”には感嘆の声を上げる。断言出来てしまうほど優雅で繊細で、それでいて力強い刀だった。


障子越しに日の光が降り注ぐ。板張りの上に明るい光の水たまりが出来ていた。
太陽が真上に君臨し、短い昼時がやってきたのだろう。外からは活気あふれる魚売りの声が聴こえてくる。子を呼ぶ母の声も響いていた。


斎藤は無言のまま佇んでいる。一粒の汗もかくことはなく、静かな眼差しで綾を見据えていた。
張り詰めた空気が和らぐ。斎藤の表情が僅かに緩んだ。


「あんたに習得してもらいたい技はこれだ」


あくまで淡々と告げ、斎藤は軽く頷く。見たことのない優雅で激しくて、繊細で美しい剣技。誰の目に見せても恥じることはない、それどころか誰の目をも奪うような舞。既に芸術の域に達している。
無駄がないからこそ美しい、素朴で秀麗な斎藤らしい剣術。それが五月雨だった。


綾は喉を鳴らして頷きを返した。手先が細やかに震えている。剣技に圧倒されて呼吸すら忘れた。
もし自分の喉元にあの刀を向けられたら。恐らく一瞬にして命を刈り取られるだろう。死んだことすら気づかぬうちに骸に変わる。むしろ刀に見とれているうちに全てが終わる。そういう剣だと綾は思った。
畏怖にも似た気持ちで斎藤を見つめる。瞳は熱に浮かされたように潤んでいた。


「綾」


そっと呼びかけると斎藤は目を細める。途端に彼の纏う空気が凛と張り詰めた。
重くはないが尖った空気。一瞬目を逸らせば喉に刃を当てられるような気分になる。
綾が固い表情を作ると、斎藤は静かに呼吸を繰り返した。


「今度は動きの一つ一つを確認してみせる」
「解りました」


綾の了承に返事をせず、斎藤は再び広間の中央に直立した。
いつも通り襟巻を身につけているのに、その布の端は大人しく垂れ下っている。微動だにしていない証拠だった。
完全な静寂を纏わりつかせ存在する。ただそこに在る。空気と同化し気配を消す。


次の瞬間刀に手をかけた斎藤を、綾は瞬きを忘れ凝視した。
彼の持つ全てを受け継ごうと、必死に見ていた。





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