斎藤と綾は表向き、出張という形が取られた。伊東派や幹部に近い者たちには隠密行動のため十日ほど京のある場所にて潜伏すると説明された。 隠し剣のことを知るは近藤、土方、後は山崎だけである。斎藤と綾は十日の間、土方邸から出ることを許されていない。山崎はそんな二人の為に食材の買い出しや連絡係を務めることと相成っている。
斎藤の申し出があった次の日、早速二人は土方別邸に向かった。本日から伝授が始まる。 綾は広間にて一人斎藤を待った。斎藤は半刻遅れてこの別邸に入ることになっていた。 静かな気配が広間に向かってくる。綾が顔を上げるとほぼ同時に襖が開いた。
「待たせたな」
足音を立てず斎藤は部屋に入る。襖が閉まると同時に空気が変わった。張り詰めて肌を刺す。かつてない緊張感に綾は背筋を伸ばした。 斎藤は真向かいに座ると、すっと書物を取りだした。鶯色の表紙の薄い本であった。
「これは?」 「俺が編み出した技を書き記した本だ。いつ死んでもおかしくない身の上故、残しておきたいと思ったのだ」
開いてみよ、と斎藤は言う。綾は恐る恐る手を伸ばした。表紙を捲ると斎藤らしい丁寧な筆跡で文字が綴られていた。剣術を遣る上での心得が彼なりの言葉で記されている。
「俺は新しい流派を開いた訳でも剣術の評論家でもない。ただ、殺す為の剣に特化したやり方を書いた。兵法家からすれば邪道以外の何者でもないだろう」
照れるでもなく斎藤はいつも通り淡々と言った。読み進めながら綾はそれを謙遜だと思った。至極丁寧に剣の道や相手をいかに仕留めるかが書かれている。これほどまでの理論を考え記すには随分な時間を要しただろう。それは想像に難くなかった。 理論が終われば次に技が書かれている。綾は手を止めた。指先が小刻みに震える。この技こそが斎藤が編み出した隠し剣と解ったのだ。
「技の名を“五月雨”という」
斎藤は技が書かれた最初の頁に大きく書かれた文字を指差した。見事な筆跡で“五月雨”と記されている。 最初の数行を綾は目で追う。静やかに降り注ぐ剣なり。刀を抜いたことを悟られぬほど素早い抜刀と正確な振りを要す。
「それ正しく、五月雨が如く」 「使いこなすことが出来れば、負け知らずの必殺剣になるだろう」
目を見開いた綾を、斎藤は真っ直ぐ見据えた。新選組において一、二を競うほどの剣客が長年懸けて編み出した居合。心惹かれぬ訳はなかった。 綾は袴の裾を握り締め、それから斎藤の刀に目を遣った。鬼神丸国重は使いこまれておりながらも、手入れが行き届いている。物を大事に扱う斎藤らしい刀だった。
「本当に良いのですか」 「何がだ」 「斎藤さんが長年かけて作り上げた技を、私のような者に授けても。教えてしまったら何の努力もしていない私が遣えるようになってしまうのに、」 「綾」
強い声音で斎藤は話を遮る。どこまでも真剣な眼差しを綾に向けた。射抜くような目だった。 驚いて綾 は瞬きも忘れ見つめ返す。斎藤は静かに怒りを湛えていた。
「勘違いをするな。剣術を教えはするが、それを物にするかどうかはあんた次第だ。遣り方を教えられただけで容易に扱える技ではない」 「けれど…」 「それに俺の弟子は綾だけだ。確かに五月雨を授けようと思った経緯はそれにあるが、だからといって俺はあんたが取るに足らぬ剣客だとしたら申し出などしなかった。例え弟子が百人、千人いてもあんたに授けただろうと思案した故に、申し出たのだ」 「斎藤、さん…」 「自分を卑下するな。俺は綾の才を認めたからこそ伝授を決めた。長年懸けて編み出した秘匿の技をどうでも良い人間に授けるほど愚かではない。近藤局長、土方副長とも俺の考えに賛同下さった。綾 は立派な剣客だ」
その曇りなき眼は真実を湛えていた。綾の手は力を入れ過ぎて白く変色を遂げている。感動のあまり打ち震え、言葉を失くした。 斎藤は嘘を嫌う。言葉が少ない人だが、代わりに本当のことしか口にしなかった。殊に剣術に関する世辞など以ての外だ。それを綾はよく知っていた。
秘伝の技を生みだすまでに大層な苦労があっただろう。容易に想像できる。何度も改良を重ね苦渋の末に編み出した技。目にした瞬間、死が待つという必殺剣。 唇を引き結ぶと綾は顔を上げた。瞳には先ほどまでの弱さは消え失せ、代わりに凛とした強さが宿っていた。
「お願いいたします」
綾の表情に何かを感じ取ったのか、斎藤は深く頷きを返した。 始めるか、と言った彼の表情はどこか穏やかだった。
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