呼ばれたのは近藤の私室だった。周囲に人の気配はなく、静まり返っている。 綾が部屋に入ると空気が一気に張り詰めた。 一番下座である襖の傍に座ると、綾は一礼した。
「近藤先生、土方さん、斎藤さん。お呼びでしょうか」 「おお、雪之丞。わざわざすまぬな。今日はちとお前に話があってだな」
近藤は朗らかに笑んで、斎藤を見遣る。斎藤はいつも通り無表情ではあったが、瞳が真剣だった。何かあったのだろうか。綾は顔を顰めた。
「御用とは一体…」 「それは俺から話します」
静かに口を開くと斎藤は綾に向き直る。僅かな間を置き、口を開いた。
「お前には入隊後より剣術を指南してきた。あらゆる業を教え、時に厳しく接したがお前は弱音も吐かず励んできた」
淡々と部屋に斎藤の声が響く。彼の言わんとすることが読み取れず、綾は黙って先を促した。 近藤と土方は話の内容を知っているらしく、一言も口を挟まない。真剣な眼差しだけがあった。
「俺に教えられることは既に教えた。残すはただ一つのみ」 「ただ、一つ?」 「左様」
斎藤は顔を上げる。綾を見据えた瞳は真っ直ぐで、透き通っていた。 目を逸らすことの敵わない瞳だった。藍色のその目は秘境の泉のように綺麗だと綾は思った。
「道場破りの武者修行や、色んな剣術を学んだ末に編み出した。絶対に負けぬ居合術だ」 「絶対に負けない、居合…」 「もし俺が何かの流派の者であらば、“秘剣”と呼ぶ奥義の類」
外からは寺の坊主が経を唱える声が聴こえてくる。一月の西本願寺は多忙を極めている。そうした喧騒が何だか遠かった。 綾は拳を握りしめて斎藤を見つめる。胸の鼓動がやけにうるさい。
「その隠し剣を綾、お前に授けたい」
そう言って斎藤は口を噤んだ。言うべきことは言ったという顔をしていた。 綾は何と答えれば良いのか解らなかった。剣術をしている上で秘剣と呼ばれるものがあることは知っていた。道場にて脈々と口伝のみで伝えられていく、その流派最強の技。通常、ひと世代に一人にしか伝えられない。流派にとって秘剣の存在自体が秘匿である。流派の矜持が秘剣にはかかっている。故に道場で高弟に密かに伝えられるのが習わしだった。
特定の道場に通っていた訳ではない綾は、そうした奥義の伝授は憧れるものの無縁だと諦めていた。それに普通は女性には伝えられないものだ。なんせ世代に一人なのであるから。
だからこそ斎藤の申し出は恐れ多く、同時に感慨深かった。もちろん斎藤は道場主でもどこかの流派の高弟でもない。されど斎藤が優れた剣客であることなど、綾はよく知っていた。その斎藤が編み出した最強の居合を、綾に伝授する。言葉を失い、綾は斎藤をただ見つめ返した。
「奥義の伝授は本来ならば道場の奥で行うものだが、この度は仕方あるまい。幸いトシの別邸があるからな。そこで行いなさい」
近藤がそう言えば、今まで黙っていた土方は深く頷いた。
「伝授に使える時間は十日だ。それ以上は待てねぇ。…出来るな?」
土方の鋭い視線に気圧され頷く。綾は三人をかわるがわる見渡し、それから斎藤に視線を定めた。
「斎藤、さん」 「なんだ」 「良いのですか?」 「何がだ」 「私に大事な奥義を…、良いのですか?」
綾が擦れた声で尋ねれば、斎藤は一瞬瞠目する。しかしすぐに彼は頷いた。
「伝授を受けるな?」 「謹んでお受け致します」
深く頭を下げた綾に、斎藤はようやく微笑む。 見守っていた近藤と土方の表情も僅かに緩んだ。
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