五月雨 | ナノ










人払いをした道場で、綾は面を被った。
いつもは大勢の隊士が稽古する場であるが、本日は人気がないので妙に静まり返っている。
審判の近藤は不安そうに顔を歪める。
道場の端に副長二人と染が着座していた。


今回試合を申し入れたのは、己が浪士組でいかほどなのか知りたいという綾の意向だった。
綾は自らが秀でた遣い手であることを知っていた。
紀州時代は家の意向で家茂と共に習っていたし、ある程度の年齢になると師匠はこっそり道場に上げてくれた。
身体の弱かった家茂と比べ、綾はほとんど病気したことのない丈夫さだ。
しかも勘が良く器用で、剣の才に恵まれた。
その才能のお陰で八歳で尼寺に出される予定だったのに、免れたのである。


綾は剣技に全信頼を寄せている。
だから今のうちに試して起きたかった。
近藤の刀になるにしろ、身をわきまえねばならない。
自分に何が足りないのは解らないのでは話にならない。
それで優秀な剣の遣い手との試合を望んだ。


綾の正面には竹刀を片手に静かに斎藤一が待っている。
いざ試合をすると決まり、土方は予定を変更して外で見張りをしていた斎藤を呼んだ。
綾の正体を知った近藤と山南は動揺しているし、何より遣りづらいであろう。
そう思って見張りはちょうど非番で屯所にいた原田と藤堂に任せ、斎藤に相手をするよう命じた。


綾は改めて見た斎藤の出で立ちに若干驚いた。
彼の刀が左ではなく、右腰にあったからだ。
武士の別称は左差しである。
右利きの者が刀を抜く際、左側に鞘がなければならない。
だから当然刀は左に差しておくものだ。
綾は左利きの侍に出会ったことがなかった。
この時代、左利きは不作法である。武家ならば尚更だ。
普通は矯正するし、そもそも隠されていたとはいえ綾は身分が高い。
右差しなど目通りが許されなかった。


実は土方は綾を試していた。
浪士組は烏合の衆である。
代々城勤めしてきた諸国藩士とは違い、脱藩したり元々武家の生まれではない人間が多い。
そのような集まりなので色んな人間がいる、いちいちケチをつけたり敬遠されては堪らない。


斎藤の右差しは確かに珍しい。
浪士組でも彼くらいである。
そして斎藤が左利きのことで嫌な想いをしてきたのを土方は知っていた。
斎藤は大事な仲間であり部下だ。
それに抵抗をもつようであれば、例え咎を受けようとも突っぱねてやろうと思っていた。
お行儀なんてものは、壬生浪士組において何の役に立たない、むしろ邪魔だ。
解らせるには、右差しでありながら浪士組屈指の剣術遣いである斎藤が適任だと踏んだ。


竹刀を選び、綾は斎藤に向き合う。
斎藤も面を被り一礼した。


「始め!」


道場に近藤の大きな声が響きわたった。


綾は竹刀を中段に構える。
間合いを取り、斎藤の出方を窺った。
下段に構え動じない斎藤に隙は見当たらない。
こちらが打ち込んでくるのを待っているようだ。


「やぁー!」


声を張り上げ、綾は間合いを詰めて胴に打ち込む。
パチンという音と共に竹刀は強く押し戻された。
体格的に不利な綾は鍔迫り合いでは分が悪い。
すぐに間合いを取ろうとするが、斎藤の一手が放たれる。
咄嗟に叩いて防ぎ、後ろへ飛び退いた。


強い!
綾は竹刀を握り締めた。
相当の手練れだ。
気持ちが高揚する。
このような相手と久しぶりの手合わせである。
逸る気持ちを抑え、綾は構えを上段に切り替えた。
腕を振り上げた超攻撃的な構えである。
代わりに防御は出来なくなるが、ただ防ぎながら打っても勝てないと読んだ。
本気で取りにいこうと思ったのだ。


「あの姫、やりますね」
「ああ…」


見学していた山南と土方は二人の試合に目を奪われていた。
ある程度遣えるとは聞いていたが、まさかここまでとは思わなかったのだ。
姫でなくて普通の浪士だったら良かったのに。
土方は苦々しく額に眉を寄せる。
人材不足の浪士組には是非欲しい腕前である。
せめて身分がなければと思ってしまうのは仕方ないことであった。


「やあああ!」


見計らい素早く振り下ろした一手は斎藤の頭に降りかかる。
音を立て冷静に斎藤は防いだ。
ギリギリと竹刀と竹刀が擦りあう。
たたらを踏んだ綾は、体制を崩した。


ダン!
大きな音が立ち、綾の腹に振動が走る。
目にも留まらぬ速さで、斎藤は胴に打ち込んでいた。


「一本!」


近藤の声に、綾は思わず座り込んだ。
負けた。強い。
自分はまだまだなのだと思い知らされた。


「大丈夫ですか」
「あ、はい。すみません」


面を取り近寄ってきた斎藤は綾に手を差し出した。
慌ててその手を握る。
ぐい、と強い引っ張り上げられた。
まだ打たれた腹が痛い身にはありがたい。
礼を言いながら、綾は面を取った。


「あなた様はお強いですね。どこの流派ですか?」


尋ねたのは興味本位である。
人と試合をする機会がなかったので流派に疎い。
見たことがなかったから、自分と同じなわけはないし。
そんなことを考えていると、斎藤は無表情のまま答えた。


「無外流です」
「ということは、もしや居合がお得意なのでは?」
「左様」


平坦な斎藤の回答に、綾は目を見開いた。
綾の流派は紀州田宮流である。
そして田宮流は居合に抜き出た流派だ。
刀抜かずして勝つという活人剣の心をもった居合が、大層好きであったし得意である。


綾は斎藤に関心を持った。
かなりの遣い手で、しかも自分と同じく居合を得意とする。
元々綾には右差しに対する嫌悪などない。
女の身で道場の門弟というわけじゃなかったし、何よりどうしようもない事でとやかく言われるのが、どれほど嫌なものか身をもって知っていたからだ。
つまらないことを気にするのは馬鹿馬鹿しい。
右差しだとしても斎藤は凄まじい剣術遣いだ。
そう思っていた。


綾の様子を見て、土方は安堵の溜め息を漏らす。
一応その点は心配しなくて良いらしい。
だがすぐに表情を険しくした。
綾の周りに重役三人が集まる。
また正式には後日ということになり、彼女は染と共に帰った。


「斎藤」
「はい」
「どうだった」


土方の問いかけに、斎藤は相変わらず表情を変えずに返答する。


「中々です。やや攻撃的ではありますが、勘が良い。総司の系統ですね」
「使えると思うか」
「伍長程度の実力はあるでしょう」


さらりと答えた斎藤に、土方は嘆息する。
何はともあれ、使えない人間ではないということか。
剣の実力を理由に断るのは無理だ。
眉間に皺が寄る。


「あの人はうちに入るのですか」
「ああ。だがこのことはまだ内密に」
「御意」


頷いた斎藤を尻目に、土方は顔をしかめた。
問題は山積みだ。
しばらくは息がつけないと思った。










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