五月雨 | ナノ







その日の深夜。三条札の警護に出た原田と彼の部隊は、札を抜こうとした土佐脱藩者達を捕縛した。
お手柄に会津藩は報酬金を出した。


「やっぱ高けぇ酒はうめぇな!」


永倉が酒を煽りながら歓喜の声を上げる。
貰った報酬金で原田は近藤派幹部たちに島原での楽しいひと時を与えた。
珍しく土方も同行している。
心を許せる旧友たちとの達との会話に、普段険しい表情の多い彼も本日は目元を緩めていた。


盛り上がる面々を背に綾は隣室に移った。
飲み潰れた人を介抱するために用意した部屋である。窓辺まで寄ると障子を開け、空を見上げた。
島原の幻想的な明かりの向こうで、月が輝いていた。


「綾ちゃん」


静かに襖が開いて沖田が姿を現した。綾が何かを言う前に彼は隣に座り、同じように空を仰ぐ。


「久しぶりのお酒に酔った?」


柔らかく尋ねられ、綾はゆっくり首を振る。酔う以前にあまり酒を口にしなかった。


戻ってきた綾を皆歓迎してくれた。制札警護にも参加していなかったのに、原田は綾も当たり前のように誘ってくれた。
その優しさは嬉しかったが同時に胸に迫った。自分勝手さを思い出して恥ずかしくなった。
久しぶりの賑やかな空気に何となく気遅れしてしまい、こうして席を外した。


「とても不思議な気持ちなんです。私が今、ここにいるのが」
「つい最近まで引きこもりだったから?」
「それもありますけど、それ以前に私のような立場の者が、こんな素晴らしい場にいれることが夢みたいで」


閉じこもって一人でいる間、家茂のことを考えていた。
紀州で一緒に遊んだこと、江戸に行った彼のこと、背負った宿命のこと。
どんなに重い荷物だったのだろう。その荷を思うと胸が痛かった。


「あの子は辛かったと思っていました。ずっと辛くて重すぎて潰されそうで、きっと将軍になんてなりたくないって思っていたのだと」
「今は、違うの?」
「…あの子の、慶福の遺言はたった一つ。徳川を守ってほしい、ということでした」


不幸な人だと思っていた。気楽に生きてきた綾と違い、大きな荷物を最期まで下ろすことは許されなかった。
しかし考え付いたことがある。最期の我がままが綾に徳川を託したということ。それは彼が徳川を心底愛していた証拠なのではないか。


「慶福は、…いえ、徳川家茂は将軍であることを誇って死んだのだと思います」


そして幸福だったのだ。将軍であったことは彼にとって、幸せなことだったのだ。
そう思いたいだけかも知れないと綾は思う。でもきっと間違ってはいない。
なんせ綾は家茂の姉である。双子の姉なのだから。


「可哀そうな人だったと思うことが、本当に可哀そうだと思ったのです」


沖田は黙って綾を見つめる。瞳はどこまでも優しかった。
家茂は不幸ではなかっただろうと沖田は思った。
少なくともこんなに優しい姉がいたのだから、不幸などと彼は思わなかっただろう。


「綾ちゃん」
「はい」
「僕もきっと、そうだったと思うよ」


振り向いた綾の視界に沖田の笑みが飛び込んでくる。
隣の部屋から永倉や平助の叫び声と、笑い声が聴こえてきた。三味線の華やかな音は独特な空気を演出する。
窓から流れ込んできた冷たい風が二人の頬を撫でた。


「沖田さんの好きな花って何ですか?」


掛け軸の下に飾られた花を眺めながら綾は尋ねた。
竹の皮で編んだ花瓶に生けられた花は、行燈の仄かな明かりの元静かに佇んでいる。
窓の縁に肘をついて沖田は首を傾げた。


「好きな花?そうだなぁ、なんだろう。考えたことなかった。桜か桔梗か、百合もいいな。特にこれといって思いつかないけれど」


君は?と問い返す。
綾は微笑みながら窓の外に目を遣った。


「私は菊が好きなんです」
「菊?へぇ、意外。君は椿のようなものが好きなのかと思っていた」
「椿ももちろん好きです。あの潔さが好ましい。でも、菊なんです」


優しい笑みを浮かべて綾は断言する。
床の間に飾られているのは真っ白な菊の花だった。


「弟の、徳川家茂公の幼名は“菊千代”なんです」
「菊千代君、だったんだ」
「馬鹿げていますよね。だけど私にとって花といえば、小さな頃から菊だった」


細長く繊細な花びらが幾重にも広がる。黄色や白を基調とした花は高貴な雰囲気を持っていた。
古の昔より愛された菊は、秋の季語の代表格である。公家の間では菊の観賞会が頻繁に行われ、菊を主役に茶会を催すことは珍しくなかった。
あの帝の紋章にも菊を取り入れている。この国において菊が嫌いなど言う人はいないと云える。


だけど綾にとって菊は、弟を連想させるものだった。
菊千代と名乗っていた期間は短く、彼が菊千代であったことを知る人は少ない。
それでも綾は菊が好きだった。


「今では花自体も好きなんですけど、始まりがそれだから自分は単純なんだと思っていました」
「うん、そうだね。ちょっと単純かな」
「沖田さんは正直ですね」


笑いながら綾は頷いた。沖田の正直さが何故だか嬉しかった。


「私の中にはいつでもあの子がいるのだと、心からそう思います。私自身いつまで生きていられるものか解らないけど、生きている限りずっと、慶福を忘れることはないでしょう」


不意に綾は胸元から袱紗を取り出す。中に包まれていたのは、前に近藤が江戸土産だといってくれた菊を象った簪だった。
不思議そうな顔をした沖田に説明すると、彼は簪に手を伸ばししげしげと眺めた。


「近藤先生が菊の簪を下さったのは偶然でしたが、本当に嬉しかった。私はつくづく菊に縁のあるようです」
「それを近藤さんが、ね。趣味が良い簪だね」
「とても綺麗で、私にはもったいないほどです」


細やかな細工のなされた簪は、江戸名物のつまみ簪である。朱色を惜しむことなく使った高価な簪だ。
沖田は指先くるくる回す様に弄び、それから綾の頭に手を伸ばした。


驚いて硬直した彼女の髪に沖田の指が触れる。
囲い込むように腕を伸ばして綾の髪の結び目を解いた。
はらはらと髪が雪崩れ落ちてゆく。


「沖田さん?」
「ちょっと、動かないでね」


沖田の顔が直ぐ近くにあって、意識した途端綾の頬は赤らんだ。
楽しそうに口元を緩ませて沖田は綾の髪に触れると、一纏めにした。
頭の高いところで結いあげ、それを簪で留める。
あっという間に簪は綾の頭の上にあった。上半身だけ見れば、立派な町娘だ。


沖田は少し距離を取ると綾を眺める。
小首を傾げた後、柔らかい笑みを浮かべた。


「すごく似合うよ」


目を見開いた綾は、無意識のうちに頬に手を当てた。
自分のものとは思えないほど熱くなっている。
潤んだ瞳で沖田を見つめた。


「前言撤回。綾ちゃんには菊が一番似合う」


恥ずかしがっていた綾は、ようやく理解して微笑む。
二人は静かに見つめ合ったまま時を過ごした。





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