沖田が室内に入ると、相変わらず綾は刀を抱きかかえて窓の外を見ていた。 最近では土方の指図によって沖田は床に就くことが多いため、こうして綾の部屋を訪れたのは三度目ほどである。 前回の訪問からは随分間があったというのに変わらぬ様子に、沖田は顔を顰めた。
「綾ちゃん」
話しかけられ、綾はゆっくり振り返る。その瞳のあまりの虚ろさに寒気がする。 目を逸らさず話す癖がある綾は、他人に瞳が印象に残りやすい。特に感情が籠る時に目に力を入れるので、余計に印象深いのだ。 それは例にもれず沖田も同じだったので、今までになく生気のない綾の目に痛ましさを覚えた。
「ご飯、食べないの?」 「…あまり食欲がないんです。作ってくれた方には申し訳ないけれど」
声音にも覇気がなかった。俯いた彼女の傍に近寄ると、沖田は膳を見る。 先刻平助が覗いたままの状態で朝食が残されていた。食に執着しない沖田から見ても酷い有様だった。
沖田は膳を脇に避け、綾の正面に座る。向かい合って見れば彼女の目には微かに隈が出来ているのが見て取れた。 恐らく眠りが浅いのだ。家茂が死ぬ前は心配で眠れず、死後は現実を見つめられずに眠る余裕すらなかった。
「きっと君の気持ちを一番解るのは、僕なんだろうね」
静かに切り出した沖田は目を閉じている。ゆっくりと言葉を選びながら語りかけた。
「僕も幼い頃に両親を亡くして、一番上の姉に育てられた。もう一人姉がいるけど、そうだな、僕は一番上のミツ姉さんに殊更懐いていたから。半分母親みたいなものだったし」
窓の外で鳥の鳴き声がした。昼時に差し掛かっているためか、野菜売りの声や食事の支度をする音も聴こえてくる。 沖田は目を開けて、そっと綾を見つめた。口元が柔らかく緩んでいる。
「小さい頃から人と疎遠だったせいか、大事な人に対する執着心が異常なんだよね。本来なら分散されるべき愛情が、全て一人に向ってしまうのだから」
僕の場合は姉さん、そして君の場合は弟君と呟いた。
「そのたった一人を亡くしてしまったんだから、悲しみは言葉に出来ないくらいだよね。僕もきっと姉さんを亡くしたらとんでもなく落ち込むと思うし」
だけど、と沖田は言葉を切る。いつになく真剣な眼差しで彼は綾を見据えた。
「君は乗り越えなくちゃいけないよ。いつまでも悲しみに浸っていてはいけない。前を向いて歩くことが、今の君に出来る弔いなんだから」
沖田は手を伸ばすと、綾の手を握った。驚いた彼女を引き寄せ、瞳を覗き込むように顔を近づけた。 息がかかりそうなほど近づく。緊迫した空気が漂った。
「ねぇ、綾ちゃん。君はいつまで甘えているつもりなの?君は新選組の八番組伍長なんじゃないの?」 「それは…」 「君、覚えている?入隊したばかりの頃、僕に啖呵を切ったこと。いや、忘れたなんて言わせないよ」
睨みつけるような鋭い視線で沖田は見ていた。翡翠色の瞳に目を見開いた綾が映り込む。いつの間にか彼女の手から刀が零れ落ちて大きな音を立てた。
「君には大事にしたい人が他にいるんじゃなかったっけ。この人の志を叶えたいと思う人が、いたんじゃないの?」 「あ…」 「君は僕に自分で言い放ったんだよ。忘れたなんて言わせないからね」
綾は体を震わせる。唇が小刻みに振動してた。
「近藤、先生」
呟きは擦れていたが紛れもなく綾の口から洩れた。 沖田は、そう近藤さんと繰り返した。
「君、何してるの?こんなところで座り込んでボーっとして、それで近藤さんの志を叶えられる訳だ」 「違、います…!そんな、」 「じゃあ何しているの?ここで一体何をしているの?…ねぇ、一体何してるわけ?」
何をしているのだろう。綾は唇を震わせた。本当に何をしているというのだろう。酷く厳しい言葉だったが、沖田が言っていることは何一つ間違っていなかった。 こんなところで座り込んで一日中ぼんやりして、それで近藤の手助けが出来る訳がなかった。大見得切って新選組に入隊したというのに、何をしているのだろう。
茫然とした綾を見て、沖田は僅かに表情を緩めた。
「君がここでこんな風に座り込んでいても、君の弟君が喜ぶとは到底思えないんだけど」
その言葉は綾の胸を串刺しにした。 頑張らなくてはいけない。解っていた。本当はこんなところで座り込んでいても、何一つ前に進めないこと。今の自分はお飾りのお姫様ではない。新選組八番組伍長という立派な役職を持っている。解っているのに。 綾は沖田から目を逸らし俯いた。解っていても立ち上がることが出来なくなるのだ。弟が死んでしまったという過酷な事実から、逃れられなくなる。未だ受け止められず立ち止ってしまう。
沖田は顔を顰めたまま、綾の手を強く握った。
「泣いていいんだよ、綾ちゃん」
先ほどまでとは打って変わって、酷く優しい声音だった。幼子に言い聞かせるようゆっくりと彼は言葉を紡いだ。
「泣いてしまった方が少しはマシになる」
綾の肩が揺れる。目を見開いて彼女は顔を上げた。瞳には驚愕が映し出されている。 幼い頃から泣いてはならないと言い聞かされて育った。上に立つ者は弱音を見せてはならないと言われ、新選組に入隊したらしたで強くあろうと泣かなかった。 それ以前に彼女は家茂の死を受け止められず、泣く段階にはなかった。
「泣く、とは…」 「君のことだからどうせ強がって、まだ泣いていないんでしょ。涙を流すことは悲しみの緩和になるって聞いたことがある。僕もそう思うよ」 「でも、私…」
尚も言い淀む綾を見て、沖田は小さく首を傾げる。優しい笑みを浮かべた後に強引に腕を引いた。 縺れるように綾は沖田の胸に枝垂れかかる。目を見開いた彼女の背に腕を回した。
「君って本当に不器用だよね。呆れちゃうよ」 「あ、あの、沖田さん、」 「今僕の胸の中にいるのは一人の女の子だよ。徳川や会津のお姫様でも新選組の隊士でもない、綾っていう女の子。大事な弟を亡くしてしまった女の子だ」
動揺する綾を無視し、沖田はゆっくりと話す。片方の手は彼女の頭を撫でていた。 彼の肩に頬を当てたまま綾は硬直した。
「泣いてもいいよ、綾ちゃん」
静かに沖田は言った。
「ここには僕以外に誰もいない。そして僕から君の泣き顔は見えないよ。だから泣いてもいいんだよ」
どこまでも優しく柔らかい声音だった。 不意に綾は弟のことを思い出した。大好きで大切だった家茂のことを考えた。 温かい体温に包まれ心が穏やかになっていく。と、彼女の視界が曇っていった。 大好きだったからこそ辛かったのだと、綾は思う。そして認めたくなどなかった。 家茂が既に常世の人であることなど、考えたくもなくて逃げ続けてしまった。
沖田の肩が濡れていく。綾は腕を彼の背に回ししがみ付いた。 そんな彼女をあやす様に沖田は一定の拍子で頭を軽く叩く。
「泣いてあげた方が、弟君も嬉しいと思う」
狭い部屋に押し殺した嗚咽が響く。 沖田が窓に目を向けると、揺れた木の枝の隙間から雀が飛び立っていった。
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