酷く瞼が重たかった。 ゆっくりと目を開ければ、視界がぼやけている。徐々に鮮明になり、目の前に天井があると解った。 額が冷たい。布のようなものがある。 ぼんやりと視線を漂わせると、その先にいた原田が瞬いた。 「起きたか」 「私、どうして…」 「覚えていないのか?」 僅かに原田は顔を顰める。 彼は解り易く困惑していた。 何故こうして床についているのだろう。 綾は考えるが、思い出せなかった。 倒れたのだろうか。でも何故?そういえば最近よく眠れない日が続いていた。考え事が多くて眠れなかったのだ。 弟のことを考えると心配で仕方なくて…。 ハッと綾は息を呑む。 そのまま勢いよく身を起こした。 慌てて原田が傍に寄るが、そんなことは気にならなかった。 「左之、さん」 「…なんだ」 「慶福は、私の弟は…」 否定して欲しかった。違うのだと、悪い夢なんだと言って欲しかった。 死んだなんて、だってそんな。この世からいなくなったなんて、そんなことがあっていい訳がない。 だが原田は目を伏せる。何も言わず、ただ首を左右に振った。 俄かに綾は瞠目する。口の中が乾燥して、からからだった。 「…嘘。まさか」 「残念ながら、嘘じゃねぇ」 原田の声音は彼にしては弱かったが、嘘を言っているような口調ではなかった。 元々嘘がつけない男だ。それは綾もよく知っている。 だからこそ胸を突き刺す。辛い現実が頭に圧し掛かった。 「うそ…」 目を見開いて硬直する。 涙は出ない。現実味が無さ過ぎて、泣くことすら出来ない。 呆然と原田の顔を眺めた。 身体を震わせる綾を原田は抱きしめた。それしか出来なかった。 力強い腕を振り払うことも、自分からその背にしがみ付くこともせず、綾は唇をわなわなと震わせる。 『姉上』 弟の笑みが甦る。優しく微笑んで、名前を呼んでくれた。 手の温かさも穏やかな空気も何もかも、鮮明に覚えているのに。 「慶、福…」 名前を呼んでも、もう答えてはくれない、なんて。 綾には信じられなかった。悲しい、苦しい、辛い。どの言葉でも表せないような気持ち。一言でなんて言えなかった。 大事だったのだ。とても大事な人だったのだ。 大好きな弟だった。誰よりも幸せになって欲しいと、心から願った人だった。 「綾!」 原田は力いっぱい抱きしめる。 そうしなければ消えていってしまう気がした。
目が零れ落ちそうなほど見開き、綾は叫び続ける。 「慶福、慶福、慶福…!」 何度も何度も名を呼んだ。しかし答える声はない。 痛々しい綾を、原田はいつまでも抱きしめ続けた。 徳川家茂。 十三歳にして徳川幕府十四代将軍となった彼は、とても良く家臣に慕われた。 聡明ながら穏やかで思い遣りがあり、その器はまさに将軍と謳われた。 家茂が亡くなった日の日記に、勝海舟はこう記している。 “徳川家、今日滅ぶ” 上司にもずけずけ毒舌を吐くことで有名な勝に生涯の忠誠を誓わせたのは、この若き将軍だった。 大坂城と江戸城は悲しみに包まれ、誰もが将軍を偲んだ。 しかし綾にはそんなことは関係なかった。 彼女にとって、家茂はたった一人の肉親だった。 徳川の将軍などではなく、ただの自分の大事な弟だった。 綾にとって家茂の死は、自分の半身を無くすほど、痛く辛い事実だった。 家茂は享年二十一歳。まだあまりに早すぎる死だった。
そしてこの家茂の死により、幕府の屋台骨は確実に軋み始めた。 続
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