綾は夢を見ていた。 夢だったが、現実だった。過去の、幼い頃の出来事だった。 馬に乗って大地を駆ける。後ろで一つに束ねた髪が揺れた。 風が頬を撫でて去っていく。それを気持ち良いと目を細めた。 「それにしても姉上、抜け出してしまって宜しかったのですか?」 隣で同じく馬に乗って並走しながら、慶福が尋ねる。 既に元服を済ませてはいるが、どこか面立ちに幼さが残っている。 僅かに眉を寄せた弟に、綾は笑いかけた。 「良いのです。放っておけば、いつまで経っても外になんて出られません。馬に乗ることすらはしたないと窘められるのですから」 窮屈だと唇を尖らせた綾に、慶福は心底可笑しそうに口元を緩めた。 彼は破天荒でお転婆な姉が好きだった。 「またお絹や、お染が青くなってしまいますね」 「それを言うなら慶福、あなたの方が酷いことになっていると思いますよ。…連れだした私が言うのも難ですが」 「確かに今頃困っているかも知れませんね。でも、姉上と一緒なのです。構わないでしょう」 こうして二人が城を抜け出すことはそう珍しいことではない。 隙を見ては馬に乗り、城下に乗り出していた。 普段は大人しく手のかからない慶福だが、姉の綾がいる時は別だった。 二人で何処かへ行くのをそれは楽しみにしていた。 沈みかけた太陽が、山の端から光を放つ。 その橙色の夕陽が綺麗だと、いつも綾は思っていた。 小高い丘の頂上にたどり着く。ここで他人の姿を見たことがない。まさに姉弟の秘密の場所だった。 馬を近くの木に繋ぎ、自分の足で端に寄る。 ここからは城下が一望出来た。 和歌山城と武家屋敷。城下に広がる街。田んぼに張られた水が夕陽を反射して輝いている。 忙しなく行きかう領民たち。子供たちの笑い声に、耳を傾けた。 「あなたと城下を見るのも、これで最後ですね」 綾が呟いた。 明日、綾は京に向かう。暫く京に滞在した後、会津の駕籠に乗って旅立つ手筈となっていた。 紀州に戻ることは恐らくない。会津の姫として生きるのだ。 慶福は姉の横顔を見た後、哀しそうに顔を歪めた。 そしてぐっ、と唇を引き結び、前を見る。 夕陽が沈みかけていた。 「姉上、俺は立派な将軍になります」 「…え?」 訝しげな顔をした綾に構わず、慶福は決意を口にした。 「俺は歴代のどなたにも負けないほど、素晴らしい将軍になります。誰もが幸せに暮らせるような、そんな日の本を作りたい」 「慶福…」 「それに何より」 一端言葉を切って、慶福は綾を見据える。 その瞳の真っすぐさに、綾は目を見開いた。 「姉上が笑っていられるような、そんな国にしたいのです」 「私が笑って、いられる?」 「あなたが幸せだと笑える国にしたい」 真摯な瞳に、心が震える。 綾は呼吸することすら忘れ、慶福を凝視した。 どこまでも優しい弟だった。心の綺麗な弟だ。 自慢の弟は誇りだった。 この子ならなれるだろう。素晴らしい将軍にきっとなるに違いない。綾は確信していた。 慶福は不意に姉の手を取る。強く握って、微笑んだ。 「俺は姉上を守りたい。あなたを守りたいのです」 慈しみを籠めた瞳で、慶福は姉を見つめる。 綾も口元を緩め、そして笑った。 「ありがとう」 夕陽が慶福の頬を赤く染めていく。 その幼いながらも真っすぐな眼差しに、綾は全てを託したいと思った。
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