大坂からどうやって戻ってきたのか、綾は覚えていなかった。 一緒に斎藤がついてきてくれて良かったと思う。 斎藤がいなければ、西本願寺の屯所まで戻れなかっただろう。 それほど動揺していた。 隊務は確かにこなしたが、心ここにあらずな日が続いていた。 斎藤から報告を聞いた近藤派の幹部は、いつになく元気のない綾を案じていたが、こればかりはどうしようもない。 いつも通り明るく振る舞うことしか出来なかった。 そして七月末日。 綾は広間に呼ばれた。 辿りついた時、既に近藤派の幹部は揃っていた。 しかし中央の上座、いつもは近藤と土方が腰掛ける位置が空席になっている。 二人は脇の、他の幹部が並ぶ位置に座っていた。 何より異様だったのは、一番上座に近い位置に篠山染が腰掛けていることだった。 綾がそろそろといつも通り原田と平助の間に座ろうとすると、土方が呼びとめた。 「お前は今日は上座に着け」 「え?」 「近藤雪之丞ではなく、蓮尚院綾姫に報告があるそうだ」 その言葉に綾は瞠目する。手足が自然と震えた。 会津内で身分が高い染が控え、そして正式な報告の形を取ろうとする。何の話をするつもりなのか。 半ば予想出来た。それでも肯定したくはなかった。 綾が前を通ると、その度に皆が頭を下げる。 いつもならば胸が痛む光景だが、今はそれどころではなかった。 上座に着いて、綾は辺りを見渡す。 思えば近藤派幹部が全員頭を下げているところなど、初めて見た。 「面を上げて下さい」 綾が命じれば、一斉に頭を上げる。全員が硬い表情をしていた。 静かに染を見つめると、染は唇を震わせていた。着物を皺が出来るほど強く握っていた。 「染、いかがしましたか」 「綾姫様に申し上げます。容保様より伝言を預かってございます」 「口伝ですか?」 「形に残してはならないものですので。…こちら以外ではまだ内密になさって下さい」 「約束しましょう」 綾は立ち上がると、染と場所を交換した。 容保の言葉を伝えるので、この場合染が上座に座らなくてはならない。 染が上座につくなり、綾は作法通り深く礼をした。 「では、申し上げます」 染の声は震えているが、よく通っている。 誰もが固唾を呑んで彼女の言葉を待った。 「幕府十四代将軍、徳川家茂公。去る二十日に身罷られてございます」 畳を凝視したまま、綾は息を止める。心臓がうるさかった。 徳川家茂が、慶福が、自分の弟が…、身罷った? 意味が解らなかった。否、信じたくなかった。 この世で最も大事な人が死んでしまったなど。唯一の肉親がいなくなってしまったなど、信じられる訳が無かった。 揃えた手の先は痙攣している。顔を上げることは出来なかった。 呼吸の仕方を忘れた気がした。苦しい。苦しくて悲しくて、痛い。痛くて仕方ない。 心臓を握りつぶされたようだった。息なんか出来る訳が無い。 慶福が、死んだ? 誰よりも優しくて思いやりがあって、穏やかな、自慢の弟。 あの子が、死んだ? 「綾!」 平助が目を剥いて叫ぶ。 それとほぼ同時に、綾の身体は傾いた。バタン、と大きな音がして倒れる。 染も悲鳴や、皆が慌てふためく声を聴きながら綾は意識を失った。
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