五月雨 | ナノ








「私の実家は久松松平。十三まで紀州で育ちました」
「紀州で、ですか」
「左様」


真剣な表情の近藤と、疑いの眼差しを向ける土方。
その隣で山南は眉間に皺を寄せた。
久松松平家。
世間に通じている者ならば知っている一族だ。
現将軍の母君の実家である。
家柄自体は紀州藩の高家というだけであるが…。


脱藩浪人である山南は、藩のお家事情や武家のしきたりに明るい。
久松松平家は一介の家臣筋である。
家茂公の母君が側室だったのは有名だ。
対して会津の松平家は藩主筋。
果たして余所の藩の家臣筋からわざわざ養女を貰うだろうか。
養女にするにしても慣例では会津内の親戚や、容保の弟が藩主である桑名辺りからだろう。
紀州と会津は距離も遠いし、特別親しい訳ではない。
山南は胸騒ぎを覚えた。
この話、聞いてはならない気がする。


「久松松平家?確か将軍御生母様の実家じゃねぇか」


だが山南の予感とは裏腹に、土方が口を滑らせた。
同じく土方も世間に通じていたが、彼は豪農の出。武家の事情など知る由もない。
純粋に問いかけてしまったのだ。


綾はにこやかに笑い、深く頷いた。


「そうです。というより、将軍生母の実成院様は私の母なのです」
「なんだと…!」


三人とも言葉を失った。
更に山南と土方は気づいた。
この娘は、現在いくつだと言った?
今、将軍様の御歳はいくつだ。
確か…、この娘と同い年ではないか。
顔から血の気が低く。恐ろしい考えに到達した。
正解であって欲しくない。そんな気分だ。


「お気づきのようですね」


しかし綾は静かに告げる。
徳川宗家の最大の秘密を。


「私は徳川家茂公の双子の姉に当たります」


三人は全ての事情を察する。
なぜ他藩の家臣筋から容保の養女となったのか。
なぜ公式で記録がないのか。


とんでもないことを知ってしまった。
山南は真っ青になった。
自分たちは聞いてはならなかった。
後悔しても後の祭りであった。


「そうした訳で私は会津に移り、容保殿に付き添って京に参りました」


静まり返った空間に綾の声だけが通る。
綾はこれが卑怯なやり方だと解っていた。
でもこうせねば、壬生浪士組に置いてもらえないことも解っていた。
手段を選んでいられない。
罪悪感は飲み込んだ。


「ですから私は公にされていない姫なのです」


これが証拠です。
綾は腰から打刀を抜き、三人の目の前に置く。
家茂から貰った愛刀の南紀重国である。
すっ、と鞘を引き、刃文を見るよう促す。
恐る恐る覗き見た三人は言葉をなくした。


そこに打たれていたのは葵の家紋。
まさしく徳川家の証である。


「まだ足りぬというならば、証拠は他にもございます。家茂公の直筆の文など…」
「い、いや良い!」


近藤は大げさに手を振って断った。
これ以上恐ろしいものなど見たくなかった。


「近藤さん、土方くん」


山南は溜め息をついた。
諦めの表情を浮かべている。


「我々はこの姫君を入れねばならないようです」
「そうだな…」


土方も苦々しげに頷いた。
綾に教えられたのは徳川家の秘密。
当然自分たちのような浪人が知って良いことではない。
それを知ってしまったのだ。
綾の入隊を断った時のことなど、考えたくもない。


「よろしくお願い致します」


深々と頭を下げた綾を見て、土方は頭を抱えた。
面倒事に巻き込まれてしまった。
これからのことを考えると、頭が痛い。
自然と眉間に皺が寄るのは、仕方のないことだった。






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