五月雨 | ナノ









「勝!勝海舟!勝安房守はいますか!」
「はっ、ここに」


襖を開けるなり叫んだ綾の足元に、勝は素早く控える。
綾は身を屈め、じっと見つめた。


「控えの間にいる篠山染と、斎藤一を連れて来て下さい。その際、斎藤殿に私の刀を持ってくるよう申しつけて」
「姫様、いくらなんでも…!殿中は刀ご法度ですから」
「私が慶福を傷つけると思いますか。…お願いです、どうか」


勝は綾を見据える。真偽を見極めるよう目を細め、それから笑った。


「確かにそうだ。姫様が上様をどうにかする訳がねぇ。解った、待っていなせぇ」
「ありがとう。頼みます」
「おう」


一礼すると、勝はさっと立ち上がって廊下の向こうへ駆けていった。


暫くして約束通り、勝が現れた。後ろには染と斎藤が控えている。
膝を折り、勝は口元を緩めた。


「連れて来ました」
「感謝します。では後ひと働きお願いします」
「御意に」


只ならぬ様子に染と斎藤もかしずいた。
斎藤にまで膝を折らせるのは胸に迫るものがあったが、今はそんなことに心を砕く場合ではなかった。
刀を持ちこんだのは露見してはならない。急がねばならなかった。


「勝殿と染は、私と共に部屋へ。仔細は中にて」
「はい」
「斎藤殿には見張りを頼みたい。誰も通さないよう、お願いします」
「心得ました」


斎藤は軽く微笑むと、そっと刀を差し出した。南紀重国。幼き日に家茂から拝領した葵紋を鋳れた名刀だった。
それを受け取り綾は一礼する。この刀がどうしても必要だった。


斎藤を残し、二人を引き連れて部屋の中に入った。
染が息を呑む。染も紀州時代は家茂の世話をしていたから、云わば幼馴染だった。
あまりの変わり様に驚いたのだろう。呆然と立っていた。


「染、慶福の身体を起こして差し上げなさい」
「えっ、でも…」


綾の命令に、染は動揺する。確かに染の実家、篠山家は高家ではあるが、流石に将軍に触れて良い程の身分ではなかった。
戸惑う染に、今度は家茂は微笑みかけた。


「お染、私からも、頼みます。半身起こすのを、手伝って、下さい」
「はっ、はい」


染は頷いて、家茂の傍に寄る。そして身体を起こしてあげた。
それを見守ると、綾は勝に目を向けた。


「慶福の刀を持って来て」
「上様の刀、ですか」
「左様。なるべくなら、一番良いものを」


眉を寄せた勝が、家茂を見る。家茂は再び頷いて、そうしなさいと言った。


床の間に掛けてあった刀を勝が差しだそうとするのを制止し、綾は家茂を見据えた。


「慶福に刀を持たせて。鯉口も切っておきなさい」
「…はっ」


ようやく意図を察したのか、今度は反論しなかった。
勝は家茂の背に腕を入れて支えながら、刀を持たせる。家茂は一人で刀を抜けないほど弱っていた。
するり、と家茂の刀が刀身を見せる。刀の先は鞘に入ったままだ。


綾は家茂の刀と同じように南紀重国を途中まで抜き、家茂の前にかしづいた。
それで十分だった。


「私は松平容保の娘、蓮尚院。そして新選組八番組伍長、近藤雪之丞。本名は綾」


静まり返った部屋に、綾の声だけが響く。
誰も一言も口を挟まず、耳を傾けていた。


「徳川家茂公、私の大事な弟君。願いを聞き入れましょう。あなたがお望みのように、徳川家を守ると誓いましょう」
「姉、上…」


家茂は目を見開く。その声音の力強さに、心底驚いていた。
刀を立てに持ち、綾は意志の強い瞳で真っすぐ家茂を見据えた。


「時代がどう変化しようと、例え徳川が窮地に立たされようと、私は徳川を見捨てません。あなたの愛した徳川家を死力を尽くして守ります」


すっ、と綾は膝を進める。
姉の意図を察して、家茂は戸惑った。


「それでは、約束を反故にすることが、出来なくなって、しまいます。守らなくては、いけないこと、に…」
「私はその場凌ぎの約束をするほど無責任ではありません。だいたい武家の者が守る気のない約束などしてはいけません」
「姉上…」
「私は一度約束したからには守ります。少なくとも自分から反故にするようなことはあり得ません」


言い放った綾の瞳に、家茂は瞠目する。しかし直ぐに頷いた。
嬉しそうに微笑んだ彼の瞳には、再び涙が盛り上がる。


綾は刀を家茂の刀に近づけた。


「あなたの願いを聞き入れます。誓いを、刀に託します」
「解りました。では、金打を」


金打(きんちょう)とは、江戸時代行われた、約束を違えぬという誓いに武家であれば刀と刀の金属部を触れあわせる行為である。
これによって約束されたことを破るのは、武家の道に反する恥じるべき行いだ。
なので金打の効力は絶対である。
だからこそ家茂は驚き、そして何より嬉しかった。


刃と刃を近づける。震える家茂の手を勝が支え、背を染が支えた。
金属同士が触れ合う鋭い音が部屋に響いた。
神聖な音だと、綾は思った。
これで徳川を守らねばならなくなったが、後悔はない。それよりも家茂の願いを叶えてあげたいとそればかりを思っていた。


「姉上」


刀を仕舞った家茂は、目から涙を零した。
穏やかで優しい、彼らしい笑みを浮かべていた。


「私は、あなたと双子でいられたことを、何よりの、幸せと存じます」


急な言葉に、綾は目を丸くする。
だが直ぐに彼女も笑って頷いた。


「奇遇ですね。私も慶福と双子で良かった。あなたの姉として生まれたことが、人生最大の幸運です」


見つめあって、微笑みあう。
運命に翻弄された双子の姉弟の心は、間違いなく一つだった。





[] []
[栞をはさむ]


back