綾と家茂は、幼少期の思い出を語り合った。 お互いに楽しかったことしか口にしなかった。 一緒にいた時間は短い。十二歳で離れ離れになって、それからは本日を合わせて三度しか会っていない。 でも、二人の仲の良さは揺るがなかった。 話すことさえ辛い家茂の代わりに、綾は沢山話した。 幼少の頃の話の種がなくなってからは、新選組の事を話して聞かせた。 任務ではなく日常の事ばかり話した。大声を上げて笑った話や、嬉しかったこと。島原の煌びやかさに、京の人々の慎ましさ。 綾が台所に立っていることを聴くと、家茂は心底驚いた。 皆に優しくしてもらっていることを聴くと、家茂は嬉しそうに頷いた。 やがて話題が尽きても、綾は家茂の手を強く握っていた。 痩せ細った手に愛情を籠めた。大きなものを背負わされて辛い想いをしてきた手を労わるように、撫で続けた。 「姉上」 黙ってしまった綾の代わりに、家茂が口を開く。 再び迷うような素振りを見せ、それから瞼を閉じた。 「お願いが、あります。私の最期の我侭、です」 「…!最期だなんて、縁起でもない!」 「聞いてくれますか?」 思わず声を張り上げた綾にも、家茂は動揺しなかった。 相変わらず穏便な口調ではあったが、どこか強さも含んでいる。 綾の手が震えた。家茂は解っているのだ。自分の死期を察している。日に日に弱っていく身体に何かを感じている。未だ受け止めきれずにいる綾よりも、余程。 綾は口を結んで、家茂を見た。ここで話を聞かずにいれば後悔する。今から家茂が言うことは遺言にもなりえる。いや、きっと遺言のつもりで言うのだ。 幼い頃から他人を優先してばかりで、我侭一つ言わなかった家茂の頼み。姉として聞いてあげたかった。 唇を固く引き結んだ姉に少し笑いかけ、家茂は天井を仰いだ。 天井には一面に煌びやかな錦絵が描かれている。 金箔の空に色鮮やかな鳳凰が飛んでいた。 「私は、良い将軍では、なかった。民の為に力を尽くせる、立派な将軍に、なりたかった。けれど、私に才能は、なかった」 「そんなことは、」 「徳川を背負うとうことは、日の本を背負うと、いうこと。私には責任があったのに、何一つ成し遂げられず…。情けない、限りです」 家茂の唇が震える。感情が高ぶったのか、瞳は潤んでいた。 悔しい想いをしてきたのだろう。綾は摩るのを止め、代わりにその手を強く握る。一言も聞き逃すまいと、身体を折って耳を近づけた。 「日の本は、本当に、素晴らしい国、です。美しいこの国を、私は、守りたかった。それこそが、私の使命と、思っていた」 「慶福…」 「無力だった。私に出来ることなど、何も無かった。私は駄目な将軍でした」 つっ、と家茂の瞳から涙が零れ落ちる。無念で仕方ないと、その眼差しが語っていた。 これから頑張れば良い。そう励ますべきなのだろうと思ったが、出来なかった。 また頑張れなど、無責任なことは言えない。家茂は将軍に着任してからずっと、立派な将軍になりたいと努力していたのに、今更また頑張れなんて。 「あなたは立派な将軍でした」 泣きだしそうになるのを堪え、力強く言い放つ。 綾は目に力を籠めた。 「誰が何と言おうと、慶福は、徳川家茂は良い将軍だった。私はあなたが治める国で生きていられて良かったです」 「あね、うえ」 「誰が批難しようと、絶対にそれだけは揺るがない。あなたは良い将軍でしたよ。私はあなたの姉で誇らしかった。本当に誇りに思っています」 有無を言わせぬ口調に、家茂は何度も何度も頷いた。 零れ落ちる涙が止まらなかった。 その涙を綾が拭ってあげると、静かに家茂は口を開いた。 「私は無力だった。それでも、守りたい人が、いました。姉上や母上や、宮様。こんな私を慕ってくれる家臣。日の本を統べる器はなかったけど、手近な人くらいなら、守れるような、気がしていたから」 荒く呼吸を繰り返し、それど家茂は言葉を紡ぐ。 どうしても話してしまいたいと、ほとんど気持ちだけで持たせていた。 「姉上に、こんなことをお願いするなど、図々しいと思います。あなたがどんなに、苦しめられてきたのか、私には想像も、出来ない。だけど、あなたにしか、頼めない」 唇を噛んで、綾は深く頷いた。話しなさいと促した。 家茂は手を強く握った。 「徳川を、守って欲しいの、です。私が愛した徳川を、どうか助けて、下さい」 「よし、とみ」 「宮様を、母上を、私の家臣達を…。私の大事な人達を、私が遺してしまう人達を、守って、欲しい」 家茂は解っていた。これはとても残酷な願いなんだと、知っていた。 綾はずっと苦しめられた。徳川に生まれながら、徳川によって苦しめられてきた。紛れもない事実だ。 何も言えずに綾は家茂の手を握り続ける。 徳川家が嫌いだった。何かしてくれるどころか、自分から奪い続けた。翻弄し続けた。 姫として育てるどころか、影武者にしようとした。要らなくなったらあっさりと養女に出した。 紀州でも会津でも自分は厄介者でい続けた。蔑まれていたのも知っている。 それでもこれが家茂の本心からの願いであることも解っていた。 家茂は綾の境遇と気持ちを知った上で、これを願っている。これを口にすることを躊躇いながらも、守ってほしいと思っている。 家茂はゆっくりと瞬きをした。盛り上がっていた涙が一気に流れ落ちていた。 「この場限りの、口約束でも、良いの、です。反故にしても、構わない。だから、約束して、くれませんか。姉上にしか、頼めなくて」 綾は瞳を閉じた。 自分をこの場だけ安心させてくれれば良いと、家茂は言う。それは本心だろう。本当に守らなくても良いと逃げ道をくれた。 だけど本当は守って欲しいはずだ。徳川のために、家茂の大切な人を守るために。 静かに決意すると、綾は家茂の手をそっと離した。 「少々待っていて下さい」 「姉上?」 「直ぐに戻りますから」 立ち上がってしずしずと綾は場を離れた。
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