家茂は目を細めると、柔らかく微笑んだ。 心底嬉しそうな表情を浮かべていた。 「こうして姉上にお会い出来て、本当に、嬉しいです」 「慶福…」 「多忙な、姉上には、悪い、のです、が」 息苦しいのか、家茂の言葉は途切れ途切れになっていく。 そのかすれた声を一言も聞き洩らすまいと、綾は耳を近づけた。 以前会った時はまだ元気な時で、堂々とした話していたのに。 そもそも幼少の頃から人の上に立つ者として、はっきりした話し方をするよう躾けられてきた人だ。 綾は弟の手を強く握った。 胸が痛くて仕方なかったが、表情に出ないように明るく笑った。 「何を言っているのですか。私もあなたに会えて嬉しいのですよ。だいたいあなたは自分の気持ちを抑え込む癖があるから、今くらいでちょうど良い。偶には我侭になっても一向に構わないのです」 「姉、上…」 「あなたの我侭なんて可愛いものですよ」 少し目を見開いていた家茂はやがて微笑んで頷いた。 そしてありがとう、と小さな声で呟いた。 窓から陽光が差し込んで、畳の上に影を作る。 剣山に挿された花が仄かな芳香を漂わせていた。掛け軸は紀州連山を描いた見事な水墨画だ。紀州藩主から寄贈された品だった。 ふと視線を漂わせた家茂は瞼を閉じた。 「覚えて、いますか?紀州で過ごした、幼少の、頃」 もちろんと頷いた綾を、家茂は目を細めて見つめた。 懐かしいものを見るような、温かい色を浮かべている。 「野山を、駆け回って、お忍びで城下に、行きました、ね」 「あれは楽しかった。でも、私もあなたも後で見つかって、染や家臣達に随分叱られたものです」 「姉上は、城を抜け出す、名人、でしたからね」 「人聞きの悪いことを言わないで下さい。ただ他の方より、隙を見つけるのが得意だっただけです」 「はは、確かに、そうですね」 二人の笑い声が部屋に響いた。 幼少の頃の話をするのは楽しかった。当時も悲しいことがなかった訳ではない。 それでも姉弟一緒にいられた時間は、大切だった。 お転婆で男勝りな綾と、優しく穏やかな家茂。対照的な性格をしていたが、非常に仲の良い二人だった。 不意に綾は思った。 家茂は既に上方に来て一年以上。その間長州征伐があったりと疲労することが多く、更に周りに誰として気を置ける人がいなかったのではないか。 姉である自分は容易に会うことが叶わない立場だし、母や和宮は江戸に残してきている。側近の勝は蟄居中で、城入りを許されたのはごく最近だ。 だというのに公家や諸侯の責めに遭い、倒幕派の風当たりも受けてきた。壮絶な罵倒にも耐えてきた。身を粉にして働き続けた。 その結果が、これではないのか。綾は唇を噛み締めた。 部屋で待つ間、勝に聞いた。家茂は将軍職を辞退したいと帝に願い出たのだという。されど人望篤い家茂の引退は許されなかった。 元々責任感が強い家茂が辞めたいと言ったのだ。相当辛かったに違いない。 心に積もっていった疲労が、やがて家茂の身体を蝕んでいった。 「姉上」 呼びかけた家茂は、僅かに顔を顰めた。 綾が慌てて顔を覗きこむと、戸惑うように言い淀む。 言うか言うまいか迷っているようだった。 「慶福。何か言いたいことがあるなら、遠慮せずに言いなさい。私はいつでもあなたの味方ですよ」 優しくそう言って、家茂の手の甲を軽く叩く。 すると家茂はようやく決意したように頷いた。 「あなたにずっと、謝らなくては、ならないことが、ありまし、た」 「謝らなくてはならないこと?」 「幼少の頃から、ずっと。今も、なお」 静かに綾が見遣ると、家茂は眉を寄せていた。 胸に出来た大きなしこりを吐きだすような顔だった。 「私は、生まれながらにして、紀州藩主で、徳川の子として、育ちました。随分贅沢が許されたし、周りの人に敬われて、きた。大事にされて、きた。でも姉上、あなたは、違った」 長いこと話しているので苦しいのだろう。家茂の額には汗が浮かんでいた。 しかし綾は遮らず、黙って手拭を取り出し汗を拭ってあげた。ここで家茂の話を聞かなければ後悔するだろうし、ここで止めさせるのは家茂の意思に反すると思った。 「紀州徳川の血を、同じく引いているというのに、あなたは、双子だというだけで、追い出され、蔑まれた。たらい回しにされ、徳川の名を冠することも、許さなくて…」 家茂の声音は徐々に弱くなっていく。それは単に彼が病人だというだけでなく、心情からもきているようだった。 「同じ双子だというのに、私が当主だったために、あなたにはずっと、辛い想いをさせて、しまいました」 「慶福…」 「本当は、紀州の姫として、敬われて然るべき人、なのに。私と双子だった、ばかりに」 昨日今日で思い付いたのではない。ずっと胸に抱えてきたのだ。 綾は瞠目して、家茂を見つめた。弟はこの想いをまだ幼い頃から抱えていた。 確かに何度も徳川を恨んだ。双子だというだけで差別してきた周囲の人間が嫌いだった。 双子に生まれたのは自分の本意ではないというのに。どうしようもないことでとやかく言う周りが大嫌いだった。 だけどそれを家茂が謝るのは違う。綾は必死に首を振った。家茂を恨んだことなど一度もない。双子で辛い想いをしたのは家茂も同じだったはずだ。 「そんなこと、どうでも良いのです。辛い想いをしたこともあったけど、紀州の姫として生きていれば新選組に入るなどという破天荒は許されなかったでしょう。新選組に入隊出来たことは私にとって、とても幸せなことなのです。だから気にしなくて良いのですよ」 「姉上…」 「それにあなたと双子で悔いたことはありません。本当です。神や仏に誓いますよ」 家茂は驚愕するが、それもやがて笑顔に変わる。 姉の言葉を気遣いではなく本心と察し、ただ口元を緩めた。 綾にはずっと秘めてきた想いがあった。家茂に謝らなくてはならないことがあった。 「私にも聞いて欲しいことがあります。慶福にずっと謝らなくてはならないと思っていた」 「姉、上?」 息を大きく吸って綾は家茂を見据えた。酷く緊張し、手が小刻みに震えていた。 「幼少の頃から病弱だったあなたと違い、私は病に罹ったことはなかった。丈夫に育ってきた。でもそれはきっと、私が、あなたの分まで…」 声がかすれる。先ほどまでの綾のように、家茂は静かに見ていた。 綾もずっと考え続けていた。小さな頃から気に病んできたことだった。 「あなたが病弱なのは、私があなたの分まで元気を奪ってしまったからではないか、と」 対照的な姉弟だった。家茂は幼少の頃は本当に身体が弱く、何かあれば直ぐに風邪をこじらせ熱を出した。 だが綾は生まれてこの方、大した病に罹った事がない。小さな風邪すら手で数えるほどで、病床とは程遠い身だった。 それは自分が、家茂の分まで健康を取ってしまった為なのではないか。そんな訳ないとも思ったのに、そうとしか考えられなかった。 双子として生まれたのにこうも違えば、思わざるを得なかった。 今回脚気に罹った家茂の顔に、想いが耐えきれなくなった。謝っても仕方ないというのに、何も言わずにはいられなかった。 目を見開いて驚いていた家茂だったが、間もなく微笑んだ。 その瞳は慈しみを浮かべ、どこまでも優しかった。 「結局、姉上と私は、似た者同士、という訳、ですか」 「慶福…」 「私が病弱なのは、私の不徳の致すところであって、姉上が原因では、ありません。もし例え姉上が、私の分まで元気なのだとしても、私は構いませんよ」 「でも…!」 「それよりあなたに、今までそんなこと、考えさせていたのかと思うと、辛いです。あなたのせいでは、ありません。絶対に、違う」 病人とは思えないほど、きっぱりと家茂は言い放った。 反論をしようとした綾は口を開閉させ、やがて閉じる。 代わりに何度も何度も頷いて、ありがとうと言った。
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