その日の夜、ひと悶着起きた。 伊東を優遇する近藤、土方に対し、とうとう永倉が反発し、事もあろうか隊士を引き連れ酒を呑みに行き門限を破ったのだという。 ちょうど近藤と伊東は外出していたので、事態の収拾には土方が当たった。 綾が話を聞いた時、既に話がついた後だった。 頑なに切腹すると息巻く永倉に、土方は頭を下げて謝ったのだという。 それで永倉の怒りは収まって和解したらしい。 話をした千鶴と平助は明るい顔をしていたが、反対に綾は顔を曇らせた。 永倉が近藤に対する不満を募らせるのは、何も今に始まったことではない。 新選組という組織が大きくなって権限が膨らむにつれて、二人は反発しあった。 誰かに仕えるのが嫌で脱藩した永倉は、上から押さえつけられることを嫌う。 今回も不満の果ての行動だったのだ。 今はまだいい。なんとか話し合いで和解している。 しかしいつか、それでは済まなくなったらどうするのだろうか。 綾は近藤を敬愛している。新選組に入隊したきっかけは近藤だし、今でも気持ちに変わりはない。 されど永倉のことも兄のように慕っていた。快活で少し抜けたところがあって、気風の良い永倉が好きだった。 だからこそ両者の諍いには心を痛めていた。 廊下を歩きながら、不意に足を止める。 空に大きな月が君臨していた。雲が一面にかかって星は見えないが、朧月もまた風流だ。 無意識のうちに息を漏らし、綾は目を伏せた。 「雪之丞くん」 そこへ声を掛けられ、顔を上げる。 いつの間にか目の前に山南がいた。相変わらず涼しげな佇まいである。 羅刹になって以来、あまり顔を合わせる機会がなかった。 生活の時間帯が全く異なるし、羅刹が住まう場所は隔離してある。 驚いて咄嗟に辺りを見渡した。幸い人影は見当たらない。 誰かに見つかっては拙いのではないかと瞠目する綾に、山南は笑みを浮かべた。 「幹部棟に平隊士が来ることはないでしょう。この時間ここをうろついていれば見咎められますからね」 「は、はぁ…」 「心配性ですね、君は。どちらにしろ、私は直ぐに自室に戻りますから大丈夫ですよ。土方くんに呼ばれてこちらに赴いていただけですからね」 落ち着いた口調でそれだけ言った。山南は穏やかな表情をしている。 羅刹になって以来、腕を怪我していた頃のように刺々しく他人に当たることはなくなった。 だが代わりのように羅刹と変若水に異様な執着をしていることも、綾は知っていた。 顔を顰めた綾だったが、それ以上は何も言わなかった。 土方が呼びつけたのなら大丈夫なのだろうし、元より幹部でもない自分に口を挟む権利はない。 静かに頷いて話を終わらせた。 夜の闇には音一つない。昼間の喧騒が嘘のようである。 漆黒に引きずり込まれる気分になる。 時折吹く風だけが、唯一の音として存在していた。 「雪之丞くん」 山南が沈黙を裂く。先ほどよりも幾分か柔らかい声音だった。 顔を上げた彼女に、山南は気遣わしげに微笑んだ。 「我々近藤派の結束は容易に崩れるようなものではないですよ」 「…え」 「安心して下さい」 目を見開いた綾に、言い聞かせるように山南が言う。 全てお見通しなのだ。綾は舌を巻いた。 落ち込んでいることも原因も全て、山南には露見済みだったのだ。 思わず綾は苦笑した。そんなに解り易かっただろうか。 自分もまだまだだなと息をつく一方、嬉しい気持ちも否定できなかった。 山南は山南なんだろう。羅刹になろうとそれは変わらない。そういうことなのかも知れない。 その時穏やかな空気を引き裂くように、何者かの気配がした。 咄嗟に山南を背に入れ、綾は一歩前に踏み出す。 誰かに山南の姿を見せる訳にはいかなかった。 「山南総長」 しかし現れたのは監察方の山崎だった。山崎は黒装束を身に纏っている。どこかに偵察に行っていたらしい。頭巾から覗いた瞳には、微かな疲れが浮かんでいた。 山崎は羅刹のことはおろか、綾の事情すら把握している新選組の上役の一人だ。綾は肩の力を抜いて、今度は一歩下がった。 「雪之丞伍長、あなたも聞いて下さい」 場を辞しようとしたところを山崎が呼びとめる。綾は目を丸くした。 伍長は幹部に含まない。よって重要機密事項を綾が耳にすることはなかった。 山崎が山南に用というならばその可能性が高い。そう思って離れようとしたところなのにと、訝しげな表情を浮かべる。 そんな彼女とは反対に、山南は思うところがあるのか異議を唱えない。黙って話の続きを促した。 山崎は辺りをさっと見渡し、低い声で告げる。 「公方様が病気のため、お倒れになったそうです」 一瞬何を言われたのか解らなかった。 公方様がお倒れになった。綾は零れそうな程目を見開いて、息を呑む。 公方様とは徳川幕府の将軍のことだ。つまり現将軍、徳川家茂公のことである。 その人が倒れた。病気のため、倒れた? 「病状は?」 突然のことで声も出せない綾の代わりに山南が尋ねる。 その表情は硬かった。 「あまりよろしくないそうです。まだ確証はありませんが、脚気との噂も」 「脚気、ですって…?」 脚気衝心は江戸時代の重病の一つで、労咳と並び二大国民病と呼ばれた。 治療薬が出来たのは昭和に入ってからである。それまでは死病として名高く、恐れられていた。 これには山南も驚いたらしい。冷静な彼に珍しく目を見開いている。 「本当ですか?」 「まだ解りませんが、重いことは確かなようです。幕府側は必死に隠していますが露見も時間の問題かと」 「そうですか。土方くんには?」 「今から報告に伺います。山南総長のお姿が見えたので先にお告げしました。…ちょうど、雪之丞さんもいらしましたし」 ちらりと気遣わしげに山崎は綾を見遣る。だがそれに反応する気力が彼女には無かった。 家茂が病床についた。それも脚気の疑いのある病で。 幼少の頃から身体が丈夫な人ではなかった。直ぐ風邪をこじらせて寝込んでいた。 それでもこんな大病には罹ったことがないのだ。 たったの二十一歳。これからだというのに。 「雪之丞くん、まだ決まった訳ではありませんよ。確定ではないのですから」 静かに山南が諭すように言う。声音には案ずる色が浮かんでいた。 「長きに渡る戦でお疲れなだけかも知れません」 「そうです、ね…」 確かに山南の言うとおりだ。可能性として考えられるだけであって、確定した訳ではない。 綾は顔を上げた。自分が落ち込んでいても仕方ないと思いなおした。 「ご心配おかけしました。大丈夫ですよ」 そう言って微笑んだ綾を、山南と山崎は静かに見据える。 されど心にかかった雲は、容易には晴れそうになかった。 続
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