「なぁ、綾。俺のことを話したこと、無かったよな」 静かに原田が切り出した。綾は面食らって瞬きを繰り返すが、圧倒されたまま頷く。 言われてみれば原田の身の上は、数えるほどしか聞いたことがない。 若い頃に切腹騒動を起こし、その果てに脱藩したこと。出身が伊予松山藩であること。 たったそれだけで、後は試衛館時代の話を聞いたくらいだ。 原田はじっと綾を見て、それから目を伏せる。 胸の中に閉まっておいたものを緩々と取り出していた。 「厳密にはな、俺は武家階級出身とは言い難いんだ」 「…え?」 弾かれるように綾は顔を上げる。目を丸くした。 なんせ近藤派で武家出身ではないのは、近藤と土方のみ。それが綾の認識だった。 近藤と土方が近しいのは二人が親友だということが大前提であるが、他に二人だけ農民の出ということも大きい。そしてそのことで沖田や斎藤が壁を感じているのも知っていた。 しかしかといって原田は商家の出でもないだろう。では何なのか。綾は黙って先を促した。 原田は素直な彼女に軽く苦笑した。 「俺の親父は中間(ちゅうげん)だったんだ」 「中、間…」 「お前も武家の出なら解ると思うけど、要はお武家様の小間使いの最下層階級さ」 武家には下士であっても、一家に最低一人は婢や小間使いがいるものだった。 大抵婢は農民の娘で出稼ぎに来ており、そして小間使いは中間という身分の男である。 中間は雇い主の家の用務を担当することが多い。薪割りや家の保全など雑務をこなす。 そうした仕事は武家の者がすべきでないと考えた。だから代わりに中間が行うのだ。 つまり侍扱いされない層なのである。 綾の生まれ育った久松松平家にも中間はいた。しかも上士の家なので、数は一人や二人ではない。綾もちょっとした雑務を言い付けることがあった。 原田は綾の動揺を見て、小さく零すように笑った。 「お前も知っての通り、俺は気性が荒い。誰かにお仕えするなんて、そんな殊勝な性格をしていねぇんだよ。しかも俺が奉公に上がった家の侍は尊大ヤツでな。上士で普段から人を遣う立場にいたせいか、中間や婢に無理難題を押し付けることなんか茶飯事だった」 眉根を寄せた原田はどこか苦々しい。良い思い出どころか、人生で一番辛い頃の話なのだ。それが当然だった。 「勿論俺は反発した。まだ若かったし理不尽なことに耐えられるような気性じゃなかった。言いたいことは遠慮せずに言ったな。だから生意気だって裸にされて縛りあげられ水攻めにあったこともあったし、折檻なんてそれこそ日常だったぜ」 「そんな…」 「耐えられなくなってそこを辞めた。最初の奉公先は江戸詰の家だったんだが、次は国元だった。場所さえ変われば違うだろと思ってたけど、結局同じだ。場所が変わっただけで中身は変わらねぇ。中間なんか侍どころか人間扱いされなかった」 壮絶な過去に綾は言葉を失った。何と言えば良いのか解らなかった。 お姫様育ちの綾には想像も出来ない話だ。 どんなに悔しくて屈辱だったんだろう。どんなに歯がゆい想いをしたのだろう。 解らないが、これだけははっきりしている。とても苦しくて悲しいことだ。 「原田、さん…」 「国元で腹を切った時も、そういう身分差なんかに反発した訳だな。で、こういう突飛なことをする俺は脱藩して国を出た。当然実家には勘当された」 「そんな…」 原田は柔らかく微笑んだ。 「近藤さんや土方さんのように、武士になりたいって思ったこともあった。けどな、俺はあの人達のように立派な志や憧れを持っている訳じゃねぇ。ただ、虐げられる層にいたくねぇと思ったんだよ」 農民といえど近藤や土方の実家は裕福である。飢えるような想いをしたことはなかっただろうし、誰かに仕えていた訳ではなかった。土方は若い頃奉公に出ていたが、直ぐに飛び出したと聞く。だがそれはある意味飛び出すことが“許された”とも考えられる。 中間であった原田が奉公先を飛び出すのとは訳が違う。そうした上下関係は武家は厳格であった。辞めることは藩を脱することにも繋がるので、決死の覚悟なのである。 何故原田が優しいのか解った。綾は自分の手のひらを握り締めた。 若い頃に理不尽に虐げられたから、人に親切に出来るのだ。 ぽん、と原田は綾の頭を軽く叩いた。いつの間にか俯いてしまった彼女を元気づけるよう、穏やかに微笑む。 「俺は綾に出会うまで、お偉いさんなんて碌なモンじゃねぇって思ってた。でも偉い人は偉い人でそれなりに大変なんだよな。そんなことすら解んなかった」 「……っ」 「俺が仕えていたのが、お前だったら良かったな」 優しくそう言われて、綾は唇を噛んだ。涙が溢れそうになって慌てて我慢する。 泣きたいのは自分ではないし、自分が泣くのはお門違いだ。原田の辛さは原田にしか解らない。上士の家で育った自分が泣いてはならなかった。 「でも、左之さん」 泣く代わりに言葉を紡ぐ。綾は瞼を強く閉じて涙を抑え込み、それから顔を上げた。 そこにあったのは強い眼差しだった。 「私はあなたが脱藩して試衛館に入って、新選組に加わって良かったと思っています。こうして出会うことが出来て良かったと、思っているんです」 勝手な言い分ですが、と濁しながら言う。最後は尻つぼみになってしまった。 袴を握り締め、力を籠める。指先が白くなって震えていた。 そんな綾に原田は一瞬驚いたように目を見開くが、直ぐに笑みを落とした。 優しさが素直に嬉しかった。 「そうだな。俺も綾に会えて良かったぜ」 心を籠めた一言は、綾の胸に明かりを灯す。 頷いた綾の頭を、原田は今度は優しく撫でた。
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