春の風は柔らかい。三月も半ばになった為か、随分寒さは和らいでいる。 朝の日差しから昼へと移り変わりつつある。 空は見事に晴れていて、鳶が気持ちよさそうに飛んでいった。 「伊東さんのこと、嫌ってねぇんだろ?」 ぽつり、と原田が呟いた。相変わらず視線は綾ではなく、庭の先を見ている。 問いかけというには確信が籠った物言いだった。 責める響きはなく、ただの確認といったほうが近しい。 確かに面倒な人だとは思うが、綾は伊東を邪険にはしていなかった。 それを隠そうともしていない。 おもむろに頷けば、原田もそうか、と相槌を打った。 「お前から見た伊東さんって、どうなんだ?」 「どう、とは?」 「なんで嫌わずにいれんのかなって。さっきだってあんな風に試されて、正直気分が良いモンじゃねぇだろ。目の前で近藤さん貶されてるしな」 原田はゆっくりと視線を這わせる。明るい茶色の瞳が真っすぐ綾を見据えた。 純粋に不思議に思っているようだと綾は思った。 綾が近藤に心酔しているのは周知の事実である。だからその近藤を半ば馬鹿にされているのに憤らない綾が、不可解なのだろう。 現に沖田は既に伊東を嫌うにあたって周囲を憚らないのだから。 疑問に思うのは尤もなんだろうと、綾は目を細める。 空を仰げば真っ白の雲が連なって、そろそろと流れていた。 自分の感覚が少し一般から離れてることは解っている。 庶民である新選組に入隊して既に二年。世間知らずというには時が経っていた。 「私はあまり他人のことを嫌えないのです」 「…は?」 眉間に皺を寄せ、原田が訝しげな声を上げる。そんな彼に綾は苦笑を落とした。 「これでも私は人の上に立つ者として育てられました。私が将来的に“使う者”の中には様々な人間がいると、だから嫌うことはならないと教えられました。いちいち嫌っていては人の使いどころを間違える。私が誤れば多くの者に影響します。時に命を奪うこともあるでしょう。ですから、人を嫌ってはならないのです」 目を伏せ、手元をじっと見つめる。組んだ手には肉刺が出来て固くなっていた。 既に手だけは“姫”ではない。それでも自分の生まれはまさにそうだと、解っていた。 否、こうして暮らしているからこそ思い知らされた。 「それに伊東さんのような方は上士では珍しくない。むしろ基準を上士に照らし合わせれば、かなり人格者でしょう。私の感覚は少し可笑しいのです。だから嫌えない」 「綾…」 「でも勿論、近藤先生の妨げになるのだと解れば…。容赦は致しません。私は純粋な気持ちで嫌わずにいるのではない。ただ嫌うのが損だから嫌わないだけ。打算的なんですよ」 自嘲気味に綾は笑う。そう、自分は聖人君子なのではない。嫌うのが“勿体ない”から嫌わずにいるだけ。敵と知れば切り捨てることも厭わない姿勢はまた、上に立つ者に必要不可欠である。 だから伊東を嫌わずにいることに胸を張れずにいた。伊東は恐らく悪い人ではないのだ。しかし必要であれば斬ることも出来る。自分のそうした残虐さは何も新選組に所属しているからではなく、本来のものだと知っていた。 そうした分別を自然と意識せずに行ってしまうのだ。 原田は静かに綾を見据える。自分を傷つける言い方をしているのが気になった。 物事を客観的に見るところのある原田は、綾の考えがさほど悪いとは思わなかった。 千鶴のように純粋な人間は勿論良い。綺麗で無垢な部分は守ってあげたいと思うものだし、憧れる。 でも綾のように利益不利益を思考して、冷静に判断することもまた、良いことだ。こちらは親近感を持てる。 「お前はさ、本当に上に立つ人間なんだな」 「…え?」 驚いて顔を上げた綾に、原田は優しく微笑んだ。 「その若さでその考え方だ。何だか感情的になって直ぐ嫌っちまう自分が恥ずかしくなるな」 「…!そんな、」 「綾は人の上に立つ器だ」 原田の目はどこまでも真っすぐだった。元々嘘が得意ではないし、好まない性質である。 目を見開いた綾は理解すると同時に頬を朱に染めた。 「ありがとう、ございます」 嬉しそうに笑った彼女に、原田も穏やかに目を細めて頷いた。
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