箒を握り直して溜め息を吐いた綾の肩に、大きな手のひらが載った。ぴくりと反射的に身体が揺れる。 これでも綾は新選組の伍長を任される剣客だ。人の気配を察することが出来ないなど有り得ない。 ただ、今は伊東に圧倒され警戒心を解いていた。身体を強張らせて恐る恐る振り返り、直ぐに表情を崩した。 「なんだ、新八さんですか」 「おいおい、なんだとはご挨拶だな」 不満気に声を張り上げたのは、永倉である。その後ろには原田と平助がいる。 無論、気を許しているが故の軽口だ。それが解っているから、永倉は口調と反して柔らかい表情を浮かべている。 「お前も難儀だな。伊東さんに気に入られて」 「あれは気に入られているのでしょうか」 綾が苦笑すれば、気に入られてるさと原田が笑った。 「あの人は気にくわねぇ相手には、そもそも話しかけねぇだろ。俺なんかサッパリだぜ」 あっけらかんと言い放った原田は、軽くブラブラと手を振った。 言っていることの割に悲しそうではないのは、本人自体伊東と気が合わないからだろう。 最近伊東は近藤派の幹部にも声をかけ、度々呑みに誘っているらしい。 表向きは交流を深めるためとしているが、それもどうだかというのが土方の見解だった。 特に永倉や斎藤は既に何度か酒を交わしている。 対照的に原田はあまり誘われない部類だった。 理由が学にあることは、暗黙の了解である。 穏やかで人当たりの良い原田に珍しく、あからさまに伊東を嫌悪している。 永倉も良くは思っていないようだ。 誘われてもついていくのは、土方の命があるのではないかと綾は密かに推測していた。 慎重な土方が伊東に何も警戒していないなど、全く考えられなかった。 二人に対して平助は眉を寄せる。 伊東の弟子に当たるため、表立って愚痴に加わることは出来ない。もとより加わる気もないのだろう。 綾はそんな平助に小さく目を開き、原田に視線で合図した。 途端に原田は平助のことを思い出したらしく、罰の悪そうに頭を掻いた。 「すまねぇな。お前は伊東さんの弟子だっけか」 「…ま、あの人が近藤派に嫌われてんのは周知の事実だし」 気にすんな、と平助は困ったように笑う。 平助自身も他の伊東派の面々のように、伊東に心酔している訳ではないらしい。 それどころか伊東の人柄については思うことがあるようで、同意はしないものの怒ったりはしなかった。 伊東は悪い人ではない。それどころか人を惹きつける性質を持っている。 だが肝心なところで空気が読めなかったり、または計算高いところがある。 原田や永倉はそうしたところが肌に合わないらしかった。 「お偉いさんっつーのはそれだけで無性に腹が立つモンなんだよ。奥歯に物挟まったような話し方だしよ」 吐き捨てた永倉には悪気はない。 しかし綾と平助の顔が曇った。永倉が二人の悪口を言ったことがないとは解っているが、目の前で言われて気分の良いものではなかった。 紀州徳川家の血を引く綾と、津藩藤堂家の血を引く平助は、間違いなく名家の生まれだ。 特に綾は現在も本来の身分は“姫”である。 気落ちするのは当然だった。 察しの良い原田は力いっぱい永倉の頭を叩く。何をするんだと振り返った彼を睨み、綾と平助を目で指し示した。 ようやく気付いた永倉は罰が悪そうに頭を掻く。 視線を泳がせた後、盛大に溜め息を吐いた。 「あー…。俺、隊士共に稽古をつけなきゃなんねぇんだった。また後でな」 言い訳のように早口で捲し立て、永倉は踵を返す。 だが数歩歩いたところで立ち止まった。 「別にお前らのこと言った訳じゃねぇんだ。…悪い」 低い声で謝罪を残し、今度こそ永倉は去っていった。 綾は平助と顔を見合わせ、小さく笑う。 永倉の正直さに傷つけられることもあったが、それ以上に救われることが多かった。 素直に非を認める姿勢には好感を持つものだ。 元々さほど気にした訳ではなかったから、直ぐに二人の暗雲は晴れた。 「そんじゃ俺も千鶴に稽古つける約束あるから、行くな」 「うん。千鶴によろしく」 「ああ、解った。じゃ」 ひらひらと手を振って平助も背を向ける。 その後ろ姿を見送りながら、綾は髪を掻きあげた。
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