不意に綾は立ち上がる。 窓に近寄って部屋から外を見れば、人っ子一人見当たらなかった。 現在隊士達は皆、寺の境内の掃除を任されている。 幹部の個室にいるのは恐らく、平助と綾くらいなものだろう。 「働かざる者、食うべからず。…知ってる?」 「あ、ああ。労働しないやつは食うなってことだろ。そのまんまだけど」 「そうだね」 気遣わしげに見上げた平助に、一瞬だけ視線を投げる。 それから再び窓の桟に肘をついた。 青々と茂った新緑が、風に吹かれて揺れていた。 「あれは真理だなって思う。働いていない者は、堂々とご飯を食べることも許されない。それは当然だよね」 「そうだな。皆、身分関係なく働いているものだし」 「特に農民や商人、職人はね。庶民は本当によくやってくれている」 だけど、と言葉を区切る。 何となく先が予想出来て、平助は押し黙った。 「武家も下級はそうではないけど、上級になるにつれて働かなくなる。特に女は働かない。お家の仕事といっても婢を多く抱えて、家事なんか一切しないしね。お茶や習い事をたくさんして同じような身分の者と世間話をする。それが武家の女」 なんでだと思う。綾は目を細める。 振り返った彼女の髪が、風に吹かれて舞った。 「武家の女の仕事は一生に一度だけだから。今まで楽してきたことを、その一回で払ってしまう。それが仕事」 「一生に一度の仕事って…」 「婚姻だよ。祝言を上げ、嫁ぎ先で子を生むこと」 目を見開いた平助は、呆然と綾を見つめた。 今まで考えたことはなかった。ただお偉いさん達は楽でいいなと、言った。 呑気に苦労も知らず生きてと批判的な目で見ていた。 綾は笑う。落とすように、物悲しく笑った。 自嘲の笑みに近いそれは、見る者の心を抉るようだった。 「武家の女、特に大名家の姫に課せられた宿命は、実家の為に嫁ぐこと。そして嫁ぎ先で子を生むこと。男子である方が望ましいね。実家の血を半分、嫁ぎ先の血を半分受け継ぐ子が次の藩主になる。それが理想と言い聞かされて育てられた」 特殊な育ち方をした綾も、それだけは懇々と言い聞かされた。 いつか嫁ぐその時に、実家への恩を返す。 そのために生きているのだと。 「寝食に事欠かず、綺麗な着物を買って貰って着飾ることが出来る。それが許されるのは単に、将来お家の為に嫁ぐ運命があるからこそ」 大半の姫君達は、屋敷の中に籠って育つ。 高価な着物を何着も持ち、毎日綺麗に髪を結って、珍しい簪を身につける。 侍女たちに我侭を言って、美味しい食べ物を口に入れる。 腕利きの護衛に守られて、周りに蝶よ花よと言われて過ごす。 それが当たり前だった。 しかしそれが姫君の運命でもあった。 大名の姫は、嫁ぐ時に背負うのは実家の命運である。 実家、というのは藩士やその家族全てのことだ。 今まで贅沢が許された恩返しに、藩に住まう全ての者の平和と発展のために他藩に嫁ぐ。 それこそが姫君の唯一の仕事だった。 「私も入隊するまで大して仕事なんかしてこなかった。特殊だといっても、他の姫達とそういう意味では変わらない。紀州や会津に養ってもらった。それが事実」 「それじゃあ、お前は、もし会津にいわれたら嫁ぐっていうのか?相手がどんな藩であろうと、気に食わない縁談だったとしても、嫁ぐのか?」 平助の声音は震えている。 あからさまに動揺した彼を見据え、綾は一度だけ深く頷いた。 自分に言い聞かせるように、強く。 「嫁ぐよ。それが私に出来る、会津への恩返しだから」 真っすぐな瞳には悲しさと、強い意志が浮かんでいる。 平助は何も言えなかった。言うことが出来なかった。 目の前にいる人物は、正真正銘お姫様だ。姫として育った、人だ。 自分の価値も運命も何もかも受け入れた、人なのだ。 何を言っても無駄だと解っていた。 既に全てを諦めている。沖田を好きになった後も、想いを告げずにきた。そしてこれからも。 恋など許されないと知っているから。 会津の姫として果たす宿命を、胸に刻んでいるから。 平助は俯いた。 不意に視界に綾の刀が入る。 刃紋に葵の家紋が鋳れられた尊い刀。 武家の棟梁たる証である、徳川家の家紋の刀。 震える手のひらで袴の裾を握り締める。 随分皺が寄ってしまったが、平助は気にしなかった。 「綾」 「うん?」 「もしお前が全てを投げ出して、総司と二人で逃げ出したくなったら…、俺には真っ先に言えよ。絶対、言ってくれよ」 平助は顔を上げる。 真っすぐな眼差しで、綾を見つめた。 「誰がなんといおうと、どんなに追手が強敵だろうと、俺はお前の味方だから。俺だけは綾のこと応援するから」 真剣な言葉に、綾は目を見開く。 だがすぐに顔を綻ばせ、頷いた。 「ありがとう、平助」 本当は平助には解っていた。 綾はそうして全てを捨てて、駆け落ちをしたりしない。 責任感が強い娘だ。投げ出したりはせず、自分の感情を殺すだろう。 そういう人だから自分は信頼したし、そういう人だからきっと沖田も綾に好意を抱いた。 それでも、もし限界がきたのならば、自分を頼って欲しい。 平助は拳をきつく握り締めた。 自分だけは味方でいよう。味方でいてあげたい。 そんな平助の気持ちを汲み取って、綾は微笑む。 窓から見た新緑は、淡く爽やかな風に吹かれて、静かに揺れていた。 続
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