家茂は許可を与えたばかりか、容保を説得してくれた。 再会から数日後、容保は自室に綾を呼び出す。 彼は完全に困り果てていた。 現将軍である綾の弟に説得を任せたのに、逆に自分が諭されてしまった。 良識があるといっても、年若く優しい家茂公では流されてしまったか。 進退窮まった。容保は疲れていた。
「綾殿、お気持ちは変わらぬのですか」 「はい、変わりません」
きっぱり言い放つと、綾は容保を見据える。 曇りなき眼である。 まだ十八だというのに、なんとも勇ましい娘だ。 流石あの家茂の姉だと、容保は頭の片隅で思った。
「あなたがどれほど非常識なことをおっしゃっているか、ご存知ですか」 「存じてます」 「それでも男のなりで浪人集団に混じりたいなんておっしゃいますか」 「私は志に重きを置いて生きたい」
綾の声音は強い。 一分の迷いもない言葉だ。
「徳川の血筋である、会津の姫である。なるほど大切なことでしょう。しかし私にとって、それは志には敵わない」 「志、ですか」 「志高きものほど尊ぶべきであり、志無きものはただの根無し草。私は生かされた生き方に価値を見出しません」 「……」 「近藤殿の志は富士の山より高く、あの方の情は海より深い。私はあのように尊敬に値する人物を初めて見ました」
だから近藤の傍で生きたいのだという。 容保は納得し始めている自分に気づいた。 確かに近藤勇は信頼に値する。不思議な男だ。 同じ壬生浪士組の局長でも、芹沢という人物は信用していなかった。 素行の悪さに辟易していたほどだ。 それでもあの集団を贔屓するのは、近藤を好ましく思うが故だ。
しかし、と容保は自らを律した。 しかし反対せねばならない。 自分は綾より年長でそれなりに生きてきた。 綾の危うい立場も、だからこそその中で与えられる最大の幸福も全て熟考した。 嫁入り先の候補を内密に絞りつつあり、再来年には娘として嫁がせる気だった。 女の幸せは家庭にこそある。 そう思う容保であったから、やはり綾の言い分は聞き入れがたいものだった。
「綾殿」 「なんですか」 「私は賛同しかねます」
容保の言い分は尤もだ。 それに彼には綾の養育を任された責任がある。 簡単に許してくれないことは、とっくに予想済みであった。
綾は突然頭の簪を引き抜いた。 はらはらと髪が肩に落ちる。 本日武家の娘の髪型である高島田ではなく、簡素に結っていたのには訳がある。 綾は懐に忍ばせた懐剣を取り出し髪に当てる。 容保は突拍子もない綾の行動に唖然としたが、すぐに血相を変えた。 が、遅かった。
「綾殿!」
畳の上に髪が一房落ちる。 綾の髪の右側がごっそり消え、肩ほどの長さになっている。 容保はへたり込んだ。 随分な強硬手段に出られてしまった。
「容保殿、会津の縁寺に連絡を取ってくれませんか」 「…縁寺、ですか」 「会津藩松平容保公の娘、綾。それが今の私の身分ですね」
左右揃わない中途半端な長さの髪を気にすることなく綾は言い放つ。 意志が篭もった強い口調だ。
「その姫を抹消します」 「抹消…」 「会津藩の縁寺で出家したことにするのです」
元々綾の存在自体公ではない。 だが紀州方の一部や家茂の側近、会津藩の一部は存じている。 その者たちに綾姫が浪士に混じっていると言っても納得はされないだろう。 最悪容保は咎を受ける。 だからこその策だ。 あの姫君は出家し尼寺に入った。危うい立場だったから出来る策である。 それを綾自身よく解っていた。
「綾姫は家茂公の発展を願い尼寺に入った。この理由で納得するはず。元より紀州方は私を尼にしたがっていました」 「綾殿…」 「私からも文を書きます。それで問題はないでしょう」
もうこれ以上何も言えない。 容保は降参せざるを得なかった。
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