労咳のことを口外せぬよう釘を刺され、千鶴は黙って頷いた。 沖田の覚悟は既に聞いた。自分が手出し出来ぬことも悟った。 項垂れるだけで、何を言えば良いのか解らない。 千鶴はただ俯いていた。 沖田はそんな千鶴に笑みを落とすと、空を見上げる。 とうの昔に労咳のことなど知っていた。 多少驚きはしたが、周りが思うほど悩んだ訳ではない。 刀を取ったその時から、既に覚悟は決まっていた。 一瞬一瞬が戦いだ。沖田自身、自分は剣豪だと知っている。自分よりも優れた剣術遣いなど、数えるほどしかいないだろう。 それでも命のやり取りの前では何が起こるか解らない。 今日明日にでも斬り合いの最中、死んでしまうかも知れない。 彼にとって自分の命など、その程度のものだった。 それでも悲しんでくれる人がいるのを見れば、胸が痛む。 随分感化されたものだと、沖田は苦笑した。 普通の人のような感覚が、まだ自分に残っていたのか。 最近は一緒にいることが多かったから、影響を受けたのだろう。 一人の少女を想い浮かべる。沖田よりいくつか年下の娘。 お姫様として生を受けたはずなのに、刀を握って新選組に入ることを選んだ変わり者の彼女のことを。 「千鶴ちゃん、もう一つお願いがあるんだけど、聞いてくれるよね」 「…何でしょう」 千鶴は顔を上げないまま返事をする。 声音の暗さに沖田は再度苦笑し、それから軽く瞼を閉じた。 「綾ちゃんにも言っては駄目だよ」 「…え?」 驚いて千鶴は思わず顔を上げる。 その大きな瞳を、沖田は真っすぐ見据えた。 そして特に綾ちゃんには駄目だと、再度言う。 「あの子には何も言ってはいけないよ。尋ねられても誤魔化してね」 「でも、」 「いいよね?」 何を言っているんだろう。千鶴は息を呑む。 客観的に見ても綾と沖田はかなり親しい。沖田は元々誰とでもそつなく付き合うが、一線引いたところがある。 近藤以外の人間は本気でどうでも良いと思っている節がある。 そんな彼だが、唯一綾に対しては柔らかい態度を貫いていると、千鶴は思っていた。 感情の動きに鈍い方ではあるが、千鶴は綾と過ごす時間が多い。 自然と二人のやり取りを傍で見ていたし、だからこそ思ったこともある。 この二人は互いに、互いが大切なのだろう。 それに近藤や土方に告げないで欲しい、というのは不本意ながら理解できる部分だ。 二人は沖田が労咳と知れば血相変えて江戸へ帰そうとするだろう。それを沖田は恐れている。 試衛館以来の仲間も同様だ。 伊東派に知られるのは別の意味で拙い。弱みをわざわざ掴ませてあげることはない。 しかし綾はそれらの枠に当てはまらない。 口が堅い人だ。沖田の体調を以前から案じていたし、病のことを知って気落ちしても口外はしない。 沖田としても彼女のことを信頼しているだろうに。 納得いかないのは表情に出ていた。 沖田は、不満そうだねと笑って視線を外す。 息をひとつ吐くと、ゆっくり自分の刀を見た後に再び空を仰いだ。 「綾ちゃんのことは信頼している、していないじゃないんだ。好きだからこそ言えないっていうのかな。幻滅されるとはまた違うけど」 「好きだから、言えない…?」 千鶴は沖田を凝視する。 目の前の沖田は酷く穏やかな表情をしていた。 瞳に宿る熱情を見て確信する。 もしかして沖田は、綾に仲間として以上の好意を抱いているのではないだろうか。 「沖田、さん」 「お察しの通りだよ、千鶴ちゃん。だからどうか黙っておいてね」 「でも!」 全く隠そうとせずに笑った沖田は、千鶴を見つめる。 その表情に悲しみは見いだせず、ただ静かな微笑みがあるだけだった。 「好きなら、余計伝えるべきなんじゃないですか。綾さんはそれを知って変わる人じゃない。むしろ、」 「むしろ一緒に痛みを背負ってくれる人。そんな子だね」 千鶴の言葉を引き継いだ沖田は、微かに唇を歪ませた。 「ねぇ、千鶴ちゃん。君、あの子のことをどれくらい訊いたの?…身分のこと、知っているんだっけ」 「…会津のお姫様だということは聞きました」 沖田は一瞬目を見開くと、何かを考えるように唇を軽く噛む。 不安そうな千鶴に再び目を向けた時は、彼らしくなく困ったような笑みを浮かべていた。 「あの子の生まれのこと、まだ聞いていないんだね。養女だっていうことは?」 「あ、それは知ってます。でもそれ以上は…」 「そっか、賢明だね」 賢明?と千鶴は眉を顰める。 それに頷きながら、沖田は言う。 「尊い生まれの人だよ、あの子は。とてもじゃないけど僕の口からは話せない。近藤さんや土方さんも同じ。あの子以外にあの子の実家を話せる人は、ここにいない」 「そんな、」 「先に言っておくけど、君を仲間はずれにしようとした訳じゃないよ。ただ綾ちゃんは君が実家のことを知れば、命に関わると判断したんじゃないかな」 「えっ、命に関わる、なんて」 「冗談抜きでね。そういう家柄の人。…もう薄々察しているかも知れないけど。これ以上は本人から訊いてね。君が覚悟の上で尋ねるのであれば、きっと教えてくれるから」 優しくそこまで言うと、沖田は微笑んだ。 「望めば誰にでも嫁ぐことが出来る人だよ。贅沢で恵まれた暮らしが手に入る。我慢することなくただ笑っていられるような、そんな生活を望める立場の人だ」 本来なら会うことすらなかったはずだね。沖田は呟いた。 「それほどの身分のお姫様を、どうして僕が望めるというのかな」 「…けれど、」 「僕は一応武家の生まれだけど、とても上級とは言い難い。何より今は新選組の隊士として、常に死と隣り合わせにある。それだけでも何なのに」 一端言葉を切って、息を吐く。 もう何度も何度も彼の中で考えた言葉だと、千鶴は察してしまった。 「沖田、さん…」 「僕のように死の影がまとわりついた人間と一緒にいる意味って、あるのかな。貧乏で労咳で人斬りの僕が、綾ちゃんを幸せにすることが出来るって、思う?」 自嘲気味に零した言葉は、地面に落ちて解けていく。 そんなのは関係ないと、綾はそういうことを気にする人ではないと、千鶴は思う。 一方で口にすることなんて出来なくて、袴を握り締めた。 沖田の瞳に浮かんだ強いものを、無視することは出来なかった。 綾の気性など百も承知で、その上で彼女の幸せを想ったのだ。 納得は出来ない。出来るはずがない。それでも千鶴は、これ以上何も言うことが出来なかった。 嗚咽が漏れて、大きな瞳から雫が零れ落ちる。 伝った涙が袴に斑点を作っていった。 「僕は綾ちゃんの幸せを祈っているんだ」 好きになった人だからね、と囁いた声は、風に吹かれて浚われていく。 一向に泣きやむ気配のない千鶴の頭を、沖田は優しく叩いた。
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