一通り診察を終え、松本は一歩下がる。 綾が袂を整えるのを待ち、彼は微笑んだ。 「健康そのもの。いやはや、この調子ならば何の心配もねぇな」 明るい声音に綾も胸を撫で下ろした。 幼少の頃から身体だけは丈夫だった。風邪すら滅多にひくことはなかった。 新選組入隊後は多少の無理をすることも多かったが、どうやら健康状態は保てていたらしい。 身体こそ資本の場所なので、結果に安心した。 「それは良かった。ありがとうございます」 「はは、礼はいらねェよ。お前さんの心がけがいいんだろ」 軽く笑って松本は茶に手をつけた。 先ほど千鶴が運んできたものである。頃合いを見計らって持ってくるよう、土方が取り計らったらしかった。 土方は何もかもお見通しらしい、と綾は目を細める。 彼の気の回し方には毎度の事なれど、酷く感心させられる。 「松本先生」 「ん?」 茶に手もつけず真っすぐ見据える綾に、松本は視線を寄越す。 僅かに強張った彼女の表情を見て、そっと茶を膝元に下した。 「なんだね」 「あなたは上様の主治医の一人と伺いました。それを見越してお尋ねしたいことがあります」 「…場合によっちゃ、教えてやれねェがそれでも構わねぇか?」 「勿論です。将軍家にお仕えする方ですので、口は貝のごとくあるべきと心得ておりますので」 自分でも無意識のうちに、綾の声音は固いものになる。 外の様子を窺い気配がないことを確認し、再び松本を見遣った。 「先日上様にお目通りした際、私は彼の方のお変わり様に驚きました」 「お変わり様、か」 「お痩せに、なられたのではないですか」 声を低くした綾を、松本は真偽を見抜くように見据えた。 そして息をひとつつく。 「それは新選組隊士、近藤雪之丞としての疑問かね?それとも、蓮尚院綾姫としての疑問ですかな?」 「無論、綾姫として、です」 「左様ですか。ならば答えぬ訳には参りませんな」 さりげなく口調を敬語に戻して、松本は唸る。 沈黙を落として暫くの後、ようやく口を開いた。 「あなた様のお考えは恐らく正しい」 その返答を予想していなかった訳ではないのに、綾は思わず息を呑んだ。 松本は静かに頷き、笑みを漏らす。小さな笑みはどこか物悲しかった。 「上様はここ暫く、大してお休みになっておりませんからな。随分無理しておられる」 丈夫な方ではないのに、と松本は目を伏せた。 幼少の頃からちょっとしたことが原因で風邪をこじらせ、よく寝込んでいた。傍にいた綾は何度も何度も心配した。 紀州を離れて随分経つが、綾は未だに夢に見ることがあった。 熱を出して寝込んだ弟のために、朝一番に花を摘んで生けた。甘露を用意し部屋に運んだ。寝付くまで子守唄を歌ったこともある。子供に出来ることなど限られていたが、それでも綾は許される限り傍にいた。 顔を火照らせた弟はその度姉に、ありがとうと微笑んだ。 徳川家茂は勤勉な人だ。実直で真面目で、優しい。すぐ他人のことを優先してしまう。 それだけに今のこの状況は堪えるのだろう。 長州征伐を行い、幕府に刃向う者を粛清する。 徳川の当主として求められるものに応えようと努力する。 影で家茂が、どれだけ傷ついているかなんて、誰も気にしない。 将軍として立派であることだけが、徳川家茂に求められていることだ。 綾は唇を噛み締めた。 血の繋がりは姉であるというのに、自分は全く何も出来ない。 せめて、と顔を上げる。 自分だけは味方でいよう。例え家茂の立場が、いかなるものになったとしても。 「松本先生」 「はい」 「弟を、私の大事な弟をどうぞよろしくお願いいたします」 深々と畳に額を擦りつけるように綾は頭を下げた。 松本は突飛な行動に目を丸くするが、すぐに力強く頷く。 「心配いらねぇさ。俺が上様の傍にいる」 優しい言葉に瞳を潤ませ、綾はありがとうと呟いた。
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