五月雨 | ナノ








翌朝。
庭先で床の間に飾る花を摘む染と千鶴を、綾は物陰から見ていた。
綾の隣には変装した家茂、後ろには護衛を兼ねた家臣が控える。
千鶴は一向に気づくことなく、染の手伝いに精を出していた。


「あれが、雪村家の娘ですか?」
「確信がある訳ではありませんが…」
「でも姉上が紹介されるということは、ある程度自信がおありなのでしょう」
「そうですね」


家茂が綾に教えた手掛かりは、ごく小さなものだった。
苗字が雪村であること、名前に「千」の字が入ってる可能性が高いこと。変わった小太刀を持っていること。
人違いの可能性もある。されど千鶴は全てにおいて当てはまっていた。


それで夜半にカマを掛けて質問したが、綾は奇妙なことに気付いた。
千鶴には幼少期の明確な記憶が無いのだ。
本人は幼少期の記憶など大して大事でないし、そもそも幼かったから覚えていないのだと思い込んでいる。でも綾の見解は違った。
あれは、記憶喪失の部類なのではないだろうか。


人は思いもよらぬ衝撃があると、記憶を失うことで自分を守ることがあるのだという。
千鶴の記憶のなさは、まさにそれではないか。
すなわち、一族の滅亡という過酷な記憶を、葬ってしまったのではないかと。


それに千鶴はやたらと怪我を隠す癖がある。
綾は数度千鶴が怪我をした場面に遭遇した。
同性だというのに治療を拒まれた。普段千鶴は激しい物言いをしない娘だ。だから余計に異常だった。
あれは、鬼の力、鬼の治癒力を隠すためなのではないか。
そう考えれば辻褄があう。


家茂は綾の推測に頷くと、千鶴を見たいと申し出たのである。
それで染にも協力して貰い、千鶴を表に連れだした。
本日の千鶴は男装を解き、桃色の小袖を身に纏っている。
優しい色合いが千鶴の雰囲気を、いつもよりも柔らかく演出していた。


「姉上」
「はい」
「もしあの子、千鶴殿が私の探している“雪村”の一族だと解りましたら、それとなくお知らせ下さいませんか?暫くは京や大坂におりますので、容保にでも文を預けていただければと思います」
「解りました」


よろしくお願いします、と家茂は微笑んだ。
目を細めて千鶴を見つめている。
どのような想いでいるのだろうか。綾は眉を寄せた。
徳川が滅ぼしてしまった一族の、生き残りかも知れない少女。
その娘が目の前にいるという事実に、胸を痛めているのではないだろうか。


何故家茂が尻拭いをしなければならないのだろう。
綾は憤りを感じた。腹が立った。
鬼だというのならば、それは徳川家の方だ。滅ぼされた雪村ではなく、徳川こそが鬼。
そしてその尻拭いは全く関係のない、当時幼かったはずの家茂なのだ。


「慶福、」
「私は大丈夫ですよ、姉上。案じて下さってありがとうございます」


先回りして家茂は笑みを零すと、そっと綾の手を取った。


「それでは、どうかお元気で」
「あなたの方こそ無理をしませんよう。…戦にいくのでしょう?」


控えめな綾の口調に家茂は目を見開くが、直ぐに優しく頷いた。
眼差しはどこまで温かい。


「それこそ大丈夫ですよ。総大将は尾張の徳川慶勝殿。私が第一線に出る訳ではありませんから」
「でも…」
「大丈夫です。私は死にません。新選組もいるのでしょう?」


諭すように尋ねられ、綾は深く頷いた。
家茂はそんな姉にもう一度微笑みを落とすと、では、と踵を返し去って行った。


弟の背を見送り、不意に家臣の男を呼びとめる。
家臣の名は、勝海舟。幕臣旗本の息子で、軍艦奉行並の地位につく。
今、最も家茂が信頼する家臣だ。
事実家茂は、紀州時代以外の家臣で、唯一勝にのみ双子の秘密を告げていた。


綾は自分よりも一回り以上年上のその男を見据え、縋るように言う。


「勝、慶福を、上様を頼みますよ」
「畏まりました、綾姫様。必ず私がお守りしましょう」


勝も微笑み、それから家茂の追う。
そんな二人を見送りながら、綾は唇を噛み締めた。








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