五月雨 | ナノ









黄緑色に白い小花を散らした打掛を纏い、髪を文金高島田に結って綾は登城した。
面会は内々に行われたが、一藩主の娘が将軍に謁見する。
故に容保は豪奢な衣装を用意させた。


拝謁の間で頭を下げる綾の内心は複雑だった。
弟に会えるのは嬉しい、が呼び出された訳は解っている。
弟を説得に持ち出すのは卑怯である。
内心容保に腹を立てた。


そんなことを考えていると、上座側の襖がさっと開いた。
足音と衣擦れが聞こえる。
綾の心臓が途端にうるさくなった。
目の前に慶福がいる。
ずっと会いたくても会えなかった弟が。


「お顔を上げて下さい」


記憶よりも低い声音だった。
最後に会った時は声変わり前だったのを綾は思い出した。
五年の月日は長い。


ゆっくり面を上げた綾の視界に一人の青年がいた。
徳川慶福、現在は家茂、第十四代江戸幕府将軍である。
やはり五年の月日は容姿を変貌させていた。
幼少の頃は瓜二つだといわれたのに、すっかり家茂は青年然である。
身の丈が伸び全体的に大きい。
顔は引き締まり凛々しく英明を称える。


「姉上、ご無沙汰しております」


家茂は上座には座らず、そのまま綾の目前に歩み寄った。
驚いた綾は反射的に頭を下げ、畳を凝視する。


「上様におかれましては、今回のお目通り恐悦至極に…」
「姉上」


作法通りの挨拶を始めた綾を、やんわりと遮り家茂は目の前に座った。
動揺しながら顔を上げた綾に、彼は困ったように顔を顰めた。


「他人行儀な挨拶をされると悲しくなります」
「でも…」
「人払いしましたし、今見張りに立てている者は紀州からの旧知です。ご安心を」


弟の言葉に綾は幾分か肩の力を抜いた。
元より畏まった挨拶は苦手である。
ようやく笑みを浮かべ、家茂を見つめた。


「久しいですね、慶福。元気にしておりましたか」
「はい、お陰様で。姉上はいかがですか。京の水には慣れましたか」
「ええ。容保殿には内緒ですが、私には会津よりも京が合うようです」
「それは良かった」


家茂は目を細めた。


「それよりも懐かしいですね、その呼び名は」
「え?」


首を傾げた綾に、彼は慶福呼びのことだと告げた。


「江戸に行ってからは慶福と呼んで下さる方がいないので」


さらり、と告げられた言葉で綾はようやく気づく。
既に弟は名を変えて五年。
自分は改名前に別れたので慣れないが、周囲にとっては“家茂”の方が当たり前なのだ。
事実街でも現将軍は家茂公と呼ぶ。
呼び方を改めるべきだろう。


そう思うのに、綾は何だか寂しかった。
家茂は紀州藩主になるのが早かったので、幼名を名乗っていた時期が短い。
紀州時代綾はずっと慶福と呼んでいた上に、別れた後も心の中ではずっと慶福だった。
だから慣れないし、家茂というと別人のように思える。
そんなことを考えていると読んだのだろう、家茂は朗らかに笑った。


「何も改めよというわけではないですよ」
「え?」
「ただ慶福と呼ばれると、本当に姉上にお会いしているのだと嬉しくなるのです」
「慶福…」
「姉上は私のことをずっとそうお呼び下さい」


愛情が籠もった眼差しを家茂は寄越した。
温かな気持ちになる。
そうだった、昔から弟はこういう子だった。
思いやりがあり聡く優しい。
家茂のそんな性格が、綾は好きだった。


将軍になっても何ひとつ変わらない。
姿形が違えど、本質は大好きな弟のままである。
綾は心底嬉しかった。


「それよりも、何やら容保を困らせているようですね」


楽しそうな家茂の口調に、綾は顔をしかめた。
早速本題に入ってきた。
ぐっ、と拳を握り締める。


「私は引きませんよ」
「決意は堅いのですか」
「当たり前です」


毅然と言い放つ姉の瞳を、家茂はじっと見つめる。
そしてすぐに彼はにこやかに微笑んだ。


「そうですか」
「そうですかって、止めないのですか?」
「姉上は私が止めて聞くような人ではないでしょう」


驚く綾にあっさり言い放った。
昔から姉は頑固である。
こうだと決めたら突き進む。
姉の性格を完全に理解している家茂は、何も言うまいと思っていた。
例え将軍の命令だと言っても意志は曲げられず、最悪切腹すると言い出すかも知れない。
家茂はそんな風に考えていたのだ。


「あなたは馬鹿ではない。考えた末にお決めになったのでしょう」
「慶福…」
「貫き通せば良い」


てっきり反対されると身構えていた綾は拍子抜けした。
家茂に諭されようとも聞き入れる気はなかったが、それでも反対を押し切るのはあまり気分が良くない。
だから賛同はありがたかった。
口から笑みをこぼす綾に、家茂はただしと言った。


「ただし一つだけ約束していただきたいことがあります」
「なんですか」
「絶対に死なないで下さい」


真っ直ぐ家茂は姉を見つめる。
姉が所属したいと言い張る浪人集団のことは全く知らなかった。
だが容保によれば日常的に不逞浪士の類を取り締まっており、死と隣り合わせな生活を送っているらしい。
家茂は姉が剣術に優れていることを熟知している。
師範は何度も綾が男であればと悔やんだものだ。
だから姉の腕前は心配していないが、それでも死を目前にすると人間何をするか解らない。
道場での試合とは違い、礼儀作法など守ってはくれないだろう。


故に一つ釘をさす。
姉を生かす釘を。


「絶対に生きて下さい」


約束出来ますか。
家茂は静かな声で尋ねた。
それに綾は神妙に頷いた。


「承知いたしました」
「よろしい」


満足そうに笑う家茂に、綾も笑みを返す。
そうして二人は短い再会を終えた。






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