暫くの間、二人は世間話をしていた。 話しながら、不意に綾は先ほどの青年のことを思い出す。 風間、と名乗った薩摩藩士だ。 不思議な出で立ちであった。武士ではない。しかしあの物腰は商人でもない。 綾はすっと目を細めた。 「慶福、聴きたいことがあります」 「なんですか?」 「先ほどこちらに参る際に、一人の青年に会いました。その髪は稲穂のごとく金色で、瞳は南天の実より赤でした。髷を結っておらず、かといって商人とも思えぬ出で立ち。あれは何者ですか?」 姉の問いかけに、家茂は目を丸くする。 だがすぐに彼は楽しそうに笑った。 「ああ、やはり姉上と遭遇したのですね。何か話しましたか?」 「特には。でもあの者達はただ者には思えません。大した度胸です。武家でもあそこまでの人物はおらぬでしょう」 「そうですか」 家茂は静かに頷き、それからさっと辺りを見渡す。 綾との面会自体内密だったため、予め人払いが施してある。 戸の外にいるのは、事情を知った家臣だ。 「姉上、これから申しますことは、どうぞご内密に。例え新選組の方、もしくは容保であっても口外してはなりませんよ」 思わぬ固い口調に、綾は目を見開く。それでも直ぐに、解りましたと頷いた。 家茂はそれを確認すると、一瞬外に目を向ける。 雲一つない青々とした空を、鳶の群れが飛んで行った。 「羅刹のことは、ご存知ですか?」 「…はい、知っております。それになった者も、実際この目で見ました」 「そうですか、ならば話は早い」 山南のことを思い出して僅かに表情を暗くした綾を見て、家茂は軽く微笑んだ。 何か辛いことでもあったのだろう。しかし姉が口にせぬ以上は、追及すべきでない。 元よりそれから先の話が、大事である。 「では、姉上。鬼はご存知ですか?」 「鬼?いいえ、知りません」 「左様ですか」 綾の答えに対した驚きを見せず、家茂は頷いた。 その表情が僅かに曇る。それでも言わねばならないだろうと思った。 「羅刹を作る際に模範になった種族がおります。その者達は、人と良く似た容姿をしている。されど身体能力は比べられぬほど優れているのです。一瞬にして傷が癒え、力も強い。本来の身体に戻る際には、髪は銀に似た白になり角が生える」 「…そのような者たちが、いる、と」 「長らく民草には隠されてきました。…いえ、民どころか大名にすらも。一部以外、知らぬ事実です」 目を丸くし、綾は驚愕する。 鬼など、お伽話の世界の存在だ。実在する訳ないと、長年思い続けた。 それでもすぐに家茂の話を信じた。 家茂は嘘をつくような性分ではないし、それに羅刹の件がある。随分柔軟になっていた。 ふと家茂は席を立ち、窓辺に歩み寄る。 庭に生い茂る木の葉は、見事な緑で初夏を彩っていた。 「鬼たちはその身体能力ゆえ、長い間人に恐れられてきました。鬼と人は互いに関わらぬようにした。鬼はですね、唯一の欠点があるとするならば、数が少ないのですよ。女の数が相対的に少なく、子が生まれ辛いのです」 「だから、長年人間が国を支配出来たのですね」 「ご明察。数多き者が国を統べる、それが自然の形だったのでしょう。元より鬼達は、大して権力に執着していなかったのかも知れません。それで長い間互いに疎遠でした」 でも、と家茂は言葉を切る。 その表情が苦渋に歪んだ。 「でもその沈黙が破れたのは戦国の世。鬼と同盟を結ぶ大名が出たのです。鬼との友好関係を成立された大名は、その圧倒的な力を盾にして統一した。…姉上、我が徳川もその一つなのです」 「…そうでしょうね」 「戦乱が終わり、再び平穏が訪れると、鬼達と人間は疎遠になりました。このまま関わらずにいようと、鬼達は思ったようです」 「ようです、ということは、出来なかったのですか」 綾の指摘に、家茂は苦しそうに頷いた。 「沈黙が破られたのは、異国の黒船が押し寄せた時でした。皆は思った。再び戦乱の世が訪れるやも知れぬ。さらば鬼の一族と手を結ぶ者こそが、国を統べるだろう」 「戦国の先例が、ありますからね」 「だから余計にそれが加速したのでしょう。我が徳川も例外ではなく、鬼と盟約を結ぶことにしました。徳川が戦国の際に手を組んだ一族がおりました。再びそこと手を結ばんとする動きが当然ありました。しかしそれは叶わなかった」 「叶わなかった?何故ですか」 「その一族は拒絶したのです。戦など嫌だと、そのようなことはやっておられぬと。…平和を愛する一族でした」 家茂は目を伏せた。 まるでその鬼一族に想いを馳せるように。 「断った彼らに、徳川は事もあろうか軍を差し向けた。根絶やしにしたのですよ」 「なんと!なんて、愚かな…!」 衝撃を受けた綾は目を大きく見開いた。 協力を断られたからといって、滅ぼしてしまうとは。武士として、それどころか人としてあるまじき行いだ。 それが徳川というのか。武家の棟梁の座にありながら、そのようなことをしてしまったのか。 なんという恥知らずだと綾は肩を震わせるが、直ぐに家茂も同じように険しい表情をしていることに気付いた。 「慶福、」 「それが先代、十三代家定様の時に起こった出来事です。…無論、家定様のご指示ではないでしょう」 十三代家定公は、生まれつき知的障害があったといわれている。突飛な言動の目立つ病弱な人だった。 だから家定が指示するとは考え難い。当時の幕府の首脳陣が行ったことなのだろう。 それでも徳川の名で軍を差し向けたからには、徳川の責任である。それを家茂は重く見ているようだった。 「ですから姉上、私はそれを知ってから、ずっと鬼の手掛かりを探して参りました。どうやらその鬼の一族の子供が、生き残っているのではないかという情報を耳にしたのです。私は償いがしたいと思い、彼らを探しているのですよ」 「探し出したとして、いかがするのですか?」 「謝って済むとは思えませんが、生き残りの方には出来る限りのことをしたいと思っています。それが、徳川の当主である私の務めでしょう」 言いきった家茂の瞳には、誠実さが宿っている。 何の裏もなく、ただ家茂は謝罪がしたいと言っているのだ。 滅ぼしてしまった一族に、謝りたいと。償いがしたいのだと。 優しい弟のことだ、どんなに胸を痛めたのであろう。綾は静かに目を伏せた。 愚かな先人の過去の行いが、弟の肩にのしかかっている。 「それで、手掛かりは掴めたのですか?」 「いいえ、でも随分近づいたと思います。私は、宮様に協力していただいたのですよ」 「宮様?…和宮様に?」 はい、と家茂は頷いた。 「帝にご協力している鬼の一族がいるので、宮様に紹介していただきました。その一族は鬼の世界の天皇家のようなもので、格式ある家柄だそうです。宮様は、一族の姫君と幼馴染に当たられ、親しい仲なのですよ」 「その鬼の姫君に、お会いしたのですか?」 「はい。私たちとあまり変わらぬ歳の姫でしたが、大層頭が良く快活な方でした。私の真意を汲み取って下さって、薩摩の風間家を紹介して下さいました」 「…薩摩の、風間、家」 「鬼の中で、西の統領と呼ばれる一族です。東の統領であった一族は、徳川が滅ぼしてしまった一族でしたので、事実上現在の鬼を統べる一族に当たります。…人間でいう、幕府の地位に立つ一族でしょうか。そこの当主と今回、お会いしました」 「それが先ほどの、風間千景殿、なのですね」 「左様です」 謎が解けた、と綾は思った。 これならばあの沖田が鍔迫り合いで押し負けて、挙句の果てに壁まで飛ばされたことも納得である。 鬼がどれほどの能力を持っているのか知らぬが、少なくとも羅刹の模倣になっているのだ。羅刹に勝る存在であるのは明白だった。 綾は思案した。 薩摩の風間家。そんな鬼の中でも格式ある一族が、薩摩藩にはついているのか。 一陣の暗雲が胸の中に巻き起こる。 無論、今のところ薩摩には会津との同盟がある。軽挙な行動には出ないだろうが…。 「慶福、あと一つ、尋ねても良いですか」 「はい、何ですか」 「その、徳川が滅ぼしてしまった一族とは、何という一族ですか?生き残りの名は?」 「…姉上?」 「私は日常的に市中に出ております。それとなく探すことが可能です」 真っすぐな綾の瞳に笑みを落とすと、家茂は小さくその名を呟いた。 途端に綾は腰を抜かしそうな程驚き、目を丸くした。
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