五月雨 | ナノ









深く礼をしていた綾が顔を上げると、上座には家茂が座っていた。
家茂は優しい眼差しで綾を見つめている。
それは幼い頃から変わらぬ弟らしい目であったが、綾は顔を顰めた。


痩せたのではないかと、綾は思った。
前に面会した時よりも、面立ちが細く見える。
それは健康的な痩せ方ではなく、疲労からくるもののようだった。
頬も心なしかこけているし、顔色も悪い。疲労が色濃く家茂の周りを漂っていた。


家茂は上座から降りると、綾のすぐ目の前に腰掛ける。
顔を上げるよう促し、柔らかく微笑んだ。


「姉上、お綺麗になられましたね」
「…またそのようなことを。上手いこと言っても、私は乗りませんよ」
「はは、それは残念」


朗らかに笑って、家茂は口元を緩めている。
穏やかな眼差しに、不意に疲れを見出した気がして、綾は僅かに唇を噛んだ。


「あなたはどうですか?元気に、やっておりますか」
「はい、勿論。京菓子は美味しいものが多いので、来るたびに楽しみですよ」
「あなたのことだから、きっとまた食べ過ぎているのでしょう。何でもそうですが、食べ過ぎは健康を損ねますよ。気をつけなさい」
「そうですね、姉上。肝に銘じます」


開け放した障子の間から、風が部屋の中に入ってきた。
新緑の香りを含んだ柔らかな夏風は、僅かに雨の匂いがする。
そろそろ梅雨がくる。長く激しい五月雨が、京に降り注ぐだろう。


「新選組はどうですか?」
「皆さんに良くしていただいておりますよ。大変なことも多いですが、とても楽しい」


そういえば家茂と最後に会ったのは入隊前だったと、綾は懐かしく思い返した。
容保に反対されていたところを、家茂は味方してくれたのだった。
あの時に死なないように、と釘を刺された。思うように生きよと励まされた。


入隊後は色々あって、隊士達と打ち解けるまで長かった。
近藤と平助はともかく、その他の人たちは綾に対して、“どうせ気紛れなんだろう”と軽蔑にも似た視線を投げていた。
特に沖田の辛らつさは堪えたものである。あからさまな悪意は本当に辛かった。
しかし今では蟠りも解け、綾を隊士の一人として扱ってくれている。
沖田のことにしてもそうだ。まさか、恋心を抱くなど思わなかった。
その恋心は生涯表に出すことは許されぬものではあるが、大した進歩だろう。


姉の晴れやかな笑顔を見て、家茂は静かに頷いた。
内心ずっと案じ続けていた彼は、ようやく安堵したのだった。


「そうですか、それはようございました。池田屋のご活躍、私の耳にも届いておりましたよ。姉上はお手柄だったそうですね」
「私ではなく、皆さんが、ですよ。本当に勇敢な武士の集まりなのです、新選組は」


誇らしげに綾は胸を張って言う。どこに出しても恥じない人達の集まりだと思っていた。
近藤を始め、土方、斎藤など、新選組に入って感銘を受けた人物は多い。
入隊以前もそれなりに素晴らしい人に巡り合っていたが、綾にとって新選組は誠の武士の集まりだった。
こんなに人を尊敬出来るものかと、初めて思ったのである。


家茂は優しく微笑み、ようございました、ともう一度言った。


穏やかな家茂に釣られて頬を緩ませた綾は、不意に眉を顰める。
はた、と目の前の弟の境遇を思い起こした。


「それであなたの方こそ、どうなのですか。その、…和宮様とは上手くいっているのですか」


第十四代将軍徳川家茂は、朝廷との公武合体の一環として、仁孝天皇の第八皇女である和宮親子内親王と婚姻した。
和宮は今上帝である孝明天皇の妹宮にあたる人だ。孝明帝は年離れた妹宮を、それはそれは可愛がっていたのだという。家茂との婚約が結ばれるまで、かなり難航したのは有名だった。
元々朝廷と幕府は微妙な関係を保ってきた。二人の婚姻は、あからさまな政略結婚だったのである。


前回会った時は既に二人は夫婦になっていたはずだが、その時はあえて尋ねなかった。まだ解らないことも多いだろうと思ったし、夫婦の問題にいくら姉であっても首を突っ込むのは良くないと思っていた。
それでもやはり、弟の特殊な婚姻に綾は胸を痛めていた。
皇女様がお相手であっては、さぞかし苦労も多かろうと思っていたのである。


家茂はそんな姉に笑みを一つ落とすと、


「上手くいっておりますよ」


と目を細めて言った。


「上手く、いっているのですか?」
「はい。ご存じないですか?おしどり夫婦と、私たちは有名なのですよ」
「…そうなのですか」
「宮様は天真爛漫で気さくで、それでいて気品もある素敵な方なのです。宮様と話していると、気づかされることも多いですよ」


そう言って笑った家茂の表情には、柔らかなものが浮かんでいる。
綾は一瞬にして悟った。弟の言葉は、嘘偽りがないのだと。
本当に家茂は和宮を愛しているのだろう。そうでなければ、このような優しく温かな表情を浮かべられるはずがない。


綾は何度も頷いて微笑んだ。


「それは、ようございました」


先ほどの家茂と良く似た、優しい眼差しだった。





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