綾は素直な正木の反応に、小さく息をついた。 説教したものの、半分は建前である。正木の父も母も知っているが、何の訳もなく相手に因縁をつけるような者でない。武家の名に相応しい家柄だ。 正木が顔を真っ赤にして怒鳴っていたということは、何かしら言われたのだろう。 綾は険しい表情を緩め、振り向いた。 「我が家中の者がご無礼いたしました。お怪我はございませんか?」 問いかけに、金髪の若者と従者は頷いた。 「大丈夫です」 「そうですか、大事なくて良かったです」 従者の返答に胸を撫で下ろした。 それにしても彼らは何者だろう。表情を変えずに綾は考える。 髷を結っていないということは、武家の者ではないはずだ。それでも殿上にいるのだから、それなりの身分ということになる。 綾より身分が下るとしても、限界はある。 不思議に思ったのは金髪の青年もらしく、彼は僅かに眉を顰めた。 「失礼ですが、あなた様は?」 尋ねたのは、従者の方である。 綾は少し眉を寄せ、それから口を軽く開く。 しかし、先に染に遮られた。 「恐れながら人に名を尋ねるのであれば、まず己から名乗られてはいかがですか?」 染の厳しい口調に、ハッと従者は息を呑む。 不意に金髪の青年の方が、喉を鳴らすように笑った。 「確かにそうだな。天霧、一本取られた」 「そのようですな」 青年に、従者も同意する。 名を名乗るということは、己を預けるということだ。言霊思想というものがある。名前一つで他人を呪うことが出来ると考えられた。 故に身分が高い者ほど、相手が名乗るのを待つ。それを染は指摘したのだった。 綾はあまりそういうことに拘らないが、染は綾の扱いに昔から敏感である。綾は思わず苦笑してしまった。 青年は笑みの名残を漂わせたまま、真っすぐ綾を見据えた。 「薩摩藩、風間千景」 「同じく薩摩藩、天霧九寿」 風間と名乗った青年は、そのままこちらを見ている。 綾は一瞬染を見て、それから軽く笑んだ。 「会津藩松平容保の娘、蓮尚院と申します」 「ほう、会津の姫?」 「左様」 風間は酷く訝しげな顔をした。 容保の娘など、聞いたことがないのだろう。 それに容保の年齢から考えるに、綾のような大きな子供がいる訳がない。 養女にしても公表されていないので疑問に思ったのだろう。 「私は養女に出されて間もなく落飾したので、特別に届け出ていないのです」 「養女に出されて落飾した、と?珍しいな」 「私はさるお方の落胤に当たります。それで落飾を願い出たのです。薩摩の方だけでなく、会津でも私を知らぬ者もおります」 綾の言葉に完全に納得した様子ではないが、それでも風間は引き下がった。 元よりそこまで興味もなかったのだろう。 「そのようなことを教えて良いのか?」 「隠し立てしている訳ではございませんので。それに、前の薩摩藩主である斉彬様と私は面識があります。斉彬様がお亡くなりになる前、まだ私が会津に向かう前に京の屋敷でお会いしました」 「斉彬様はご存じでしたか」 天霧が問えば、綾は頷いた。 「久光様にお会いしたことはございませんがね。薩摩と会津は同盟藩。隠し立てする謂われはありません」 力強く綾は言い放った。 一瞬の沈黙が訪れ、それを破るように風間は軽く笑った。 言葉の意味を理解したのだ。 「名は何と?」 「蓮尚院、ですが」 「違う、戒名ではない。俗名も持っておられよう」 「…綾、にございます」 「ほう、綾姫、な」 喉の奥でかみ殺すように笑い、それから失礼すると、風間は真横を通り抜ける。 去っていく二人の背中を見つめながら、綾は息を吐いた。 会津と薩摩は文久三年に同盟を結んでいる。 であるのに最近、薩摩に妙な動きがあると、綾は知っていた。 風間は見るからに薩摩内で権力がある。故に同盟のことを強調し、牽制したのだ。 また、前藩主である島津斉彬は、幕府に対して好意的ではあった。 批判はしても倒幕など目論んでいない。その証拠に、自分の娘である天障院篤姫を徳川家に嫁に出している。 斉彬は薩摩の歴代藩主の中でも賢君として有名で、未だに慕う人間は多い。 斉彬だったら妙な真似はしないだろうと、示唆したのだ。 しかし、それを風間という青年は全て解っていた。 どうやら一筋縄ではいかぬらしいと、綾は表情を険しくする。 薩摩はやはり、油断も隙もない。 「蓮尚院様」 話しかけられ振り返ると、正木が申し訳なさそうに縮こまっている。 綾は苦笑した。 「先ほどは厳しく叱りすぎましたね」 「いえ、私の軽挙が蓮尚院様にもご迷惑を…」 「風間殿に何を言われたのですか?」 訳を尋ねれば、正木はぐっと唇を強く噛む。言うべきか迷っている。 皿に強く促すと、やがて彼は顔を上げた。 「会津は時流も読めぬ、田舎者だと」 「…そう言われたのですか」 「はい」 思い出して悔しがる正木の表情は、まだ幼さを残している。 綾は息を吐いて、彼を見据えた。 「気持ちは解りますが、だからといって抜刀は許されません。そもそも武家の者が簡単に怒るものでもありません。戯言と笑い飛ばすも、また器ですよ」 「…申し訳ございません」 「されど」 再び縮こまった正木に、綾は優しく笑いかけた。 「正木、私は嬉しかったですよ」 正木は弾かれたように顔を上げる。その目は大きく見開かれていた。 「嬉しかった?」 「ええ、あなたが怒ってくれたこと、嬉しかった。私がおらぬ間、会津を頼みます」 正木は一瞬面食らった顔をした。だがすぐに彼は力いっぱい頷いた。 「はい!」 その素直さを微笑ましいものだと、綾は染と顔を見合わせて笑った。
[←] [→] [栞をはさむ]
back
|